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【評論とは】・「評論殺し、あるいはゾンビはなにものか」

実にたまたま、twitterでフォローしてない人の「作品が象徴するものの解読には意味がない・ないしはムダ」という意見を目にしたので、その辺のことについて書いてみる。
ま、どっかでもっと頭のいい人がやってる議論だろうけど、私が書いていけないという法はあるまい。

・その1 ゾンビはゾンビである、あるいはゾンビはゾンビであるだけではない
たとえば、ゾンビ映画において、ゾンビは「宇宙線をあびて復活した死体」である。が、それが象徴するものを読み解くと「大量消費社会における人々の群れ」だったりするわけだ。

で、イキナリな話だが、こういう物言いにおいて繰り返し、「たかが娯楽に深読みしやがって」とか「自分じゃものづくりができないくせに偉そうなことだけは言う」みたいな話が巻き起こってくる。

もう、いいかげんそんなことにはウンザリなんですよ!!!!!

だいたいが、少なくとも私の知るかぎり80年代以降、評論ベースでは、「ゾンビ」を例に取ると(あくまで例)、

・ゾンビはゾンビである(ゾンビの恐ろしさ、すばらしさをうったえる)
・ゾンビは何かを象徴している(それを読み取ってみれば次に見えてくるものは何か?)

この両者の間を行ったり来たりしてみたり、ブレてみたり、あるいはアクロバティックにどちらも打ち出してみたり、ということが繰り返されている。
もともと、読解力の問題で、優れた読解力を持っている人(ということは、たいていは優れたマニア)はこの両方の観点を持っている。

あとは、自分がどっち寄りのコミュニティに属しているか、こんな言い方本当にイヤだけど、どっち寄りのことを言ったら自分に益があるか、ということで微妙なゆれがあるにすぎない。

・その2 背後にあるもの
しかし、言いたいことがある。
そもそも、「ゾンビはゾンビにすぎない」ということをことさらに強調する人たちは、「ゾンビは人間社会のどーたらこーたら……」という解説の何が気に食わないのか。そりゃー理屈っぽいやつで鼻持ちならないやつはいますよ。
私も、顔面をぶんなぐりたいと思ったヘリクツばかりのスカした野郎を何人か見てきてる。

だけど、「作品の深読み」には大きく分けて二種類ある。

ひとつは、読解のための読解、好事家の手遊び。
もうひとつは、啓蒙主義だ。

前者は、たとえばシャーロッキアンがすべてのホームズものを読み漁り、「ワトソンは実は女ではないか?」という説の論文を書いたりといった行為。うまくすれば大人の高尚な遊びとなり、悪くすれば「解釈のための解釈」に堕してしまう危険性もある。
が、どちらにしろ「遊び」なので、どんな遊び方をしようと人の勝手ということは言える。
極端な話、DVDをフリスビー代わりにしたってだれも文句は言えない。

問題は後者である。
後者は、作品の読解によって作品と現実の社会、世界を結び付けようとする。このタイプも人それぞれだが、ややロコツにすぎると、「さあ私たちの背後にある思想を読み取りなさい」というような感じにはなってしまう。
カレーの食べ歩きサークルだと思ったらインド思想のカルト団体だったみたいな。

いやいや、とにかく「啓蒙主義」が嫌いな人はハッキリ言えばいいんですよ。「啓蒙主義ってきらいだよ、自分は作品を通して現実の社会とか世界を理解しようとは思わないよ」って。
それはそれで、別にだれも文句は言わないですよ。それでもいいと思う。

ただ、「ゾンビはゾンビじゃねえか」、「ロボットはロボットじゃねぇか」、「カッコつけんじゃねぇよ」っていうのは、耳ごこちがいいんですよ。でも、それだけにやっぱりあやしいと思わなきゃいけないんじゃないですかね?

自分は、この「ゾンビ(繰り返すがゾンビはあくまで例)は何者だと解釈すべきか」という議論の背後には、政治、哲学、社会問題といったものを過剰なまでに「作品」と結びつけたがらない、極度の嫌悪感、あるいは恐怖症を感じてしまうんだよね。

だってそれ以外、「深読み」批判をわざわざ書く理由が思い浮かばないんですよ。
「深読みできないからバカだ」って言われたらムカつくけど、そんなこと言うヤツ、相手にする方が悪いと思うよ。

・その3 「ゾンビがゾンビだ」理論が活きるのはどこか
私はもう繰り返されるこの手の論議から脱却したい。
「ゾンビはゾンビであり、ロボットはロボットであり、宇宙人は宇宙人だ」ということは、指摘されないでもわかりますよそれは。そもそもが、そういう指摘こそが、インテリくずれにしか向けられていないわけでしょ。インテリくずれなんて日本に何人います? たぶん三万人くらいしかいませんよ。

それより、「ゾンビはゾンビにすぎないのではないか」という物言いが活きてくるのは、むしろ「怪物や宇宙人が出てこない映画」なんじゃないですかね?

たとえば「インビクタス」という映画を観た。これはSFでもファンタジーでもないし、史実に基づいているという。
私にはあまりピンとこない映画でもあった。
解説を聞いたら「なるほど」とも思ったけど、それはやはり一種の「深読み」での解釈なんですよ。

「インビクタス」を「ゾンビはゾンビだ」流の解釈で観るとするなら、面白いことになると思うよ。書きようによっては。
モーガン・フリーマン演じるマンデラは激似なので、「すげえ、マンデラじゃん!!」でまずクリアできる。

後は個々のキャラクターたちだよね。それとキャラとキャラを結びつける関係性とかなんとかさ。

そのように、「ゾンビはゾンビ」流の解釈で、いっぺん「SFでもファンタジーでもない普通の映画」を論評し、いっぺん批判、否定してみることだ。

そうしないと、「啓蒙主義」と「啓蒙しない主義(そんな言葉ないけど)」の問題点が洗い出されず、永遠に平行線で終わってしまうと思うよ。

それと、関係ないけど「無駄なことするな」ってカッコつけて書くヤツほど無駄なことしてる、ってのがある。
自分が無駄なことをしているのを指摘されるのがイヤだから、先に言おうって魂胆だ。幼児的だね(だれのことでもない。ただそういうヤツがたまにいる)。

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