・「妻をめとらば」全15巻 柳沢きみお(1987〜1990、小学館)
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脂が乗りきっていた頃の、柳沢きみおのサラリーマン青春マンガ。
大学生だった高根沢八一は、1986年、一流企業の竹下証券に入社。
激務にとまどいながらも、「妻を めとらば 才たけて みめ美わしく 情けある」という詩のような、理想の結婚相手を探して毎日を過ごしていく……というただそれだけの話なんだが、現時点で読むと考えさせられることばかりの秀作である。
少々長くなるが、私なりに本作について感想を書いてみよう。
・その1 社会背景について
主人公の八一が23歳で1986年に竹下証券に入社し、物語は彼が30歳になるまで続くから終盤では1993年頃ということになるか(実際の連載は90年頃まで)。物語の感じとしては完全にバブル絶頂期。
証券マンはバブル期には花形職業であり、八一はさしたる考えもなく証券マンを選ぶ。激務に辟易としているが、給料の高さと転職リスクの恐さからサラリーマンをやめることができない。
結婚をめぐる状況としては、初期にコンピュータ診断の結婚相談所が出てくるし、見合い結婚する同僚もいる。現在から観ると、八一が二十代で結婚を焦るのは少々早いように思えるが、この頃はわりと普通の出来事だったように記憶している。
女性の結婚も早く、二十代半ばですでに作中の女性たちは結婚について考えている。「男の30歳は、女の25歳」という言葉も出てくる。私個人は好きな言葉ではないし、最近言われないが、いわゆる「24歳まではクリスマス、25歳すぎるとクリスマスケーキは売れ残り」と言われたような時代である。
本作では80年代後半から90年代初めは、「男女の結婚観が大きく変化した時期」とされている。
「女性が我慢することで成り立ってきた結婚という制度が、成り立たなくなっている。一方で、仕事をしたい女性にも社会は十分に答えてくれない。このため、女性が結婚に関してずっとシビアになりつつある」というふうに、作中では語られている。
ところが、八一が結婚したい最大の動機は「毎日の激務を耐えるため、家に帰ったらやすらぎが欲しい」ということなのである。この動機は繰り返し語られる。寝る時間もなく働かされる日々の中で、八一は女性との接触に最大のやすらぎを感じる男なのだ。だから、「自分に頼りきっている」と思われて女性からふられてしまったこともある。
当時の証券マンを主人公にしているため、結婚する女性たちも専業主婦になる者が多いが、それにしても彼女たちは自分なりの居場所を確保するために結婚する。やすらぎを求めようとする激務サラリーマンと、社会に失望して「自分の家庭」をクリエイトしようとする女性たちとの間の認識のズレが、本作では大きく描かれ、80年代後半の、人々の結婚観の変化を描きとめることになったように思う。
・その2 社会背景について2
少々長くなるが、もうひとつつけ加えておこう。
それは「できちゃった結婚」がひとつも出てこない、という点である。
ウィキペディアによると「できちゃった結婚」という言葉が定着するのは90年代後半からで、本作連載当時にはそういう言葉はない。
むろん、本作以前にも、たとえば「軽井沢シンドローム」などで「恋人が妊娠したから結婚する」というシチュエーションはあるにはあったが、それはある程度自由業の人たちなどであって、サラリーマン社会ではまず、あまりあることではなかった(私の周囲のサラリーマンでも、90年代半ばくらいまでででき婚した人はいなかったと記憶する)。
「でき婚」が増えた理由は、本作で描かれるような結婚の過程そのものが時代と合わなくなってきたから、ということも、後出しジャンケン的ではあるが言えるわけである。
・その3 作品として
基本的にはラブコメとして出発したらしいので、三角関係になったりとかいろいろあるのだが、連載初期は学生時代につきあっていた「保奈子」というヤリマンの女性が八一にまとわりつき、ことごとく彼の「結婚を前提としたおつきあい」をブチ壊していくというあまりリアリティのない展開。
しかし、途中からだんだん、常に起こる八一と女性たちとのギクシャクや三角関係は、八一自身の優柔不断さが原因だということがハッキリしてくる。
「主人公が優柔不断だから、三角関係がダラダラ続く」というのはラブコメの基本でもあるのだが、本作は八一の優柔不断さは、「何を選択しても自分は幸福になれないのではないか」という、彼の根本的な「人生に対する不信感」とでもいうべきところから出発していることが、読んでいるうちにわかるのである。
当然だが、結婚にしても何にしても、未来のことはわからないのだからどこかで決断して飛び込むしかない。しかし、さまざまな要因(彼の刹那主義、快楽主義、将来への不安、結婚に対する実像がどうしても思い浮かばない)で、八一は決断をすることができない。
人は幸福でも不幸でも、成功していても失敗していても「これでいいのか」と考えてしまう瞬間がだれにでもある。そしてそういうことが恒常的にあるのが八一であり、だからこそ読者は共感できる。
本作最大のクライマックスは、先方のご両親にまで挨拶に行き、結納を済ませ、結婚式の日取りまで決めた女性・めぐみと別れてしまってから、だろう。
実際、八一がそこまでこぎつけたのは全編通してめぐみだけだった。
確かに、八一がめぐみと別れたのは彼自身が大人になりきれていないからである。しかし、社会背景の話に戻るが、「結婚の社会的義務感」はこの頃、そろそろ瓦解しつつあったし、八一に「大人としての幸福」を提示できる大人たちも、本作ではほとんど存在していないことになっている。中年は中年で、壮年は壮年で悩んでいるし、欠落感を持っているのだ。
中年も壮年も、「理想的な家庭像」を失いかけていた時期だったということは言えるだろう。
八一が社会に要請されていることは何かと言えば、徹底した企業戦士になることだけである(そのように描かれている)。彼自身は結婚を「対外的な義務」とはもはや考えておらず、「自分を幸福にするためのもの」としか考えていない。
何がないかというと、彼には持つべき理想や大義がない。こういうとおかしな感じに聞こえるかもしれないが、完全に「理想」を失った者が「自分の幸福」のためだけに動くとどうなるか……多少なりとも、周囲を不幸にしてしまうのである。
(もちろん、理想や大義で行動する者も他人を不幸にする場合がある。しかし、本作連載当時はそういう考えは退けられたうえで、幸福が追求された。そして、それでも八一の心の平安は得られないのである。)
結局、八一はそんな性格や生き方を、どうしても変えることができない。また、変えられない読者も多かっただろう。
だからこそ、本作は何ともいえない読後感を持つのだ。
・その4 90年代半ば以降は……
そして90年代半ば以降、八一的虚しさは何によって補完されてきたかというと、
オタクにとっては「萌え」が、そこにスッポリ当てはまってくる。
オタク的な要素が皆無の本作だが、興味深いのは「モテない友人たちが集まって、八一の家でドンチャン騒ぎする」といったホモソーシャル的な描写も、「彼女のいない者たちの傷のなめ合い」的に描かれ、「それ自体も幸福なのだ」とは決して描かれないということである。
おそらく、本作に関して作者がホモソーシャル的な男性間のきずなを無視するのは、それが敗北主義だからだと思っているからで、だからこそ、八一には心の平安は極端なまでにおとずれない。
この八一的な「虚しさ」をどう解消するか、という観点から90年代半ば以降のオタク/サブカルの思索が始まっているはずなのであった。
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