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【雑記】・「価値観の溶解」

風邪を引いてしまい、病院に行った帰りに「週刊ポスト」に載っていた、「国母問題」に対する呉智英のコメントを立ち読みする。
以下は、立ち読みした内容に関して、忘れないうちに急いで書く。しっかりした内容を知りたい人は、今週発売の「週刊ポスト」を読んでください。

繰り返すが記憶のみで書くので、きちんと内容を知りたい人は「週刊ポスト」を読んでください。

ここで呉智英が言っていることをうろおぼえで簡潔にまとめると、

・自分の金でオリンピックに行くわけではないので、選手はカネを出す側のドレスコードには従うべき
・ファッションには自分の価値観を表明する意味合いが含まれる場合があり、それには覚悟が必要。
・若者と大人との価値観の衝突は悪いことではない。問題は無自覚であること。国母のそれは無自覚
・周囲の大人も、国母の無自覚な逸脱に対してきちんと指導できなかったのだから反省すべき
・日本は小金持ちになって、金持ちだからという理由で周囲とぜったいに協調しなければならないわけではなくなったので、ここで「価値観の溶解」が起こり、自覚なしで行動する人々が増えてきている
・これは国母世代だけの問題ではなく、ここ30年くらいの日本人の問題である

基本的にはいつもの呉智英の主張と変わらないし、聞き書きなのか執筆原稿なのか忘れたがちょっとした読み物としてもうまい。
ただ、ちょっと悪い意味で溜息が出てしまった。理由はふたつ。

・その1
まず、(週刊ポストなんて若い人は読まないかもしれないが)若くオリンピックにしか興味のない人はこの文章を、「頭の堅いオッサンの説教」としか受け取らないだろうということ。

呉智英は、若い頃は(といっても三十歳は過ぎていたはずだが)、「若いのに妙に時代錯誤なことを言う人」として受け止められてきたと思う。彼自身もその「キャラ」を貫徹しようとしていたフシがある。
要するに、往年の中村雅俊演じる教師のように、「ジーパンはいてタメ口で若い人に語りかける」みたいな、同時代の全共闘世代の人(の一部)がやっていたことの逆を行っていた。そこが珍しくもあり、面白くもあった。

しかし、彼も今や老境にさしかかり、ヒゲもたくわえて本当の頑固じいさんみたいなキャラになってしまった。これではやくみつるなどの軽薄な「苦言」と変わらないように受け取られてしまうのではないか。

・その2
次に、オリンピックだけではなく、社会評論全般を読み漁っているような若年層にとっても、「価値観の溶解」という概念と「日本は小金持ちになってかつての見識を失った」という感覚には疑問を感じてしまうのではないか、ということ。

たとえば私は必ずしも彼らの主張に同意していないが、宮台~東浩紀ラインだと「あらかじめ無自覚な人たち、価値観が溶解した人たち」が大量に存在することを前提にして論が立てられている。
対するに呉智英の主張だと「価値観を立て直せ」ということになるだろう。

私自身が同意していない評論家の言を勝手に代弁するのはどうかと思うが、宮台~東浩紀ラインだと、「無自覚な人たち」に「自覚を持て」とうながすこと自体が徒労ということになるはずだ(実はここには一種の詐術があると私は思っているが、後述する)。
そして、「自覚なき人々」をどう導いていくか、がテーマになっていると思う。

つまり、「自覚を持て、と啓蒙することが有効か無効か」という議論が、呉智英の国母問題発言の裏には、あるはずなのだ。

・その3
さて、呉智英の言う「価値観の溶解」、「自覚のない人」、「協調性のない人」というのは、すべて低成長時代というか80年代に入ってからの、「一億総中流」の人の意識である。
そして、彼は「一億総中流」の中で、「自覚ある人」として「自分の主張に耳を傾ける人」を、自分の意にかなった人として持ちあげた(と、私は考える)。

いちおう念のために書いておくと、呉智英はそこらのウスラどうでもいい評論家の千倍はマシなことを言っている。
マシなことを言っているが、「自覚のある人」と「自覚のない人」の間には、明確な基準がどこにもないことも確かだ。

いや、彼の主張の中には高学歴者や「家柄のいい人」や、社会の中枢を担う役人や大手銀行マンを挑発的に認める、という部分も見られるし、「中途半端なら学問なんかやらないで普通に暮らした方がいい」的なことも言ってはいる。
しかし、中卒だって彼の著作を「買うな」、「読むな」と言うことはできない。それが現代社会である。

くだんの「国母問題」の文章に戻ると、「国母問題的なもの」を抱えているのは週刊ポストの読者全員ということになる。そして、我々は日々「自覚して」生きねばならないということになる。

だがその「自覚がある/ない」の基準はどこにあるか? が明確ではない、というのが、こういうお説教的な文章の限界だと自分は最近思うようになった。

「自覚がある/ない」の明確な区別はもはやつかないのだから、それらをまるごと「マス」ととらえて社会システムを設計すべき、というのが宮台~東ラインの考え方だ(と、私は解釈している)。

しかし、前述のとおりここに一種の詐術があると私は思っていて、ではそういう彼らの提言を読んでいる人たちは何か、ということになる。
そうすると、やはり基準はどこにもない。ニートだろうがなんだろうか、彼らの文章を読むことができるし、それを止めることはできないし、彼らの主張がどう解釈されても制御のしようがない。

当たり前のことを書いているようだがこのあたりが、マスに向かって一般的な言葉を発していくことの限界であるように思う。
それ以上主張を厳格にコントロールするには、弟子でもとって教育するしかないからだ。

・その4
また、呉智英の方に話を戻すが「ファッションは価値観の表明」という考え方も、若者は当惑するのではないだろうか。
大半の人は「無難」を求めているのであって、自分の価値観をタイトに服装で表明しよう、という人は、ごく少数ではないかと思われる。いつの時代にも。

・その5
私個人は、今後「価値観の溶解」というのは日本そのものが貧乏になったり諸外国から痛めつけられたりして、どこかで歯止めがかかるのではないかと思っている。
そして、もはや中流意識が日本全体を覆っているとは言い難い。そもそもが、「自覚のある/なし」が、学生の間では「就職に関係のある知識や理論を有しているかどうか」になりつつある。
哲学書なんて、居酒屋で議論をしていい気になるやつらだけのものだ、そしてそいつらは負け組だ、と思っているやつもいるかもしれない時代だ(呉智英の主張は、実学賛美の超克にあることは言うまでもない)。

呉智英の「自覚がある/自覚がない」という価値基準は仮のものでしかありえず、だからといって、それを前提とした上での宮台~東の主張も、それが無自覚な人間を構築する社会システムの構築であろうが、やはり明確な価値基準のない「自覚がある人」に対して向けられざるを得ない。

となると、結論としては「問題意識の自覚」は、どうしても、70年代以降、ドン・キホーテ的な、「当人が自覚しているから自覚している」というふうにならざるを得ない(呉智英が、かつて「自分は村はずれの水車小屋に住んでいる狂人のような役割を担いたい、と言っていたのは、私の考える「ドン・キホーテ的人物」と重なる)。

どんな思考ルートをたどっても、必ず「おれが自覚しているんだから、おれは自覚しているんだ」という繰り返しに戻ってきてしまうし、それを外的に認証してもらおうと思ったら、陳腐な「勝ち組思考」くらいしか思いあたるところがない。

この「おれは自覚しているから自覚しているのだというドン・キホーテ的なあり方」と、「外的に承認されているからおれは大丈夫」という「勝ち組志向」、「リア充志向」の乖離は昨今すさまじいものがあると思う。
それをどうすればいいのかは、私にもわからん。

というわけで、この項終わり。

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