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【雑記】・「ガラにもなくファッション談義」

オタクの最大の弱点はファッションに疎いことだった、ということをみんな忘れているんじゃないか。
なぜ忘れているかというと、さすがに80年代のようなダサさはなくなっているからだ。

なぜダサくなくなったかというと、身もフタもないが「ユニクロ」が出てきたからではないかと思う。

もちろん、たとえばコミケに行く人が全員ユニクロを着ているわけでもないし、超絶的にオシャレな人たちからすれば「ユニクロの着こなし」というものが課題になっているかもしれないが、とりあえず、「ユニクロ的な無難さ」というものが、大量生産・大量供給されているという事実はまぎれもなくある。

・その1
さて、「無難」の対局が「突飛」ということにでもなるのか、要するに原宿を闊歩している女性とかでトンデモナイかっこうをしている人がいる。そうすると、たいていまじめな人が「ああいうのは大人になってから恥ずかしいと思うだろう」とか「本当のファッションは、地味な中にワンポイント的にオシャレを入れるものである」というようなことを言う。

しかし、どんなかっこうをするにせよ、ファッションというのは特定のコードにそって、その順列組み合わせを競うものだ。
本質的に「地味な中にワンポイントを入れて」いこうが、一見発狂した服装であろうが、何らかの「コード」にのっとっていることには代わりがない。
(まったくコードにのっとっていない服装があるとすれば、それはファッションではなくて「アート」だろう。そして、もちろんそういう解釈が生まれたとき、我々は「アート」のコードにのっとってその服装を見ていることになる。)

人づてに聞いた話だが、山本夏彦かだれかが若者ファッションを否定する文脈の上で、「背広を着た者をドブネズミと言うな。銀行員には銀行員の、商社マンには商社マンの、背広(昔はスーツではなく背広と言ったのです)の着こなしがあるのだ」と言ったという。
ちなみに「ドブネズミ」っていうのは、60年代から70年代にかけて、日本のサラリーマンのダサさを揶揄して言われた言葉。

が、けっきょく「特定のコードにのっとった差異化ゲーム」という観点では、サラリーマンだろうがそこらのあんちゃんだろうが、変わらないのである。

・その2
それと、「流行に踊らされていると後になって恥ずかしい思いをする」という物言いもあるが、そもそも流行に踊らされている人たちはあまり過去を振り返らないので「恥ずかしい」という概念が存在しない。

そして、「過去のことが恥ずかしいと思える感性の持ち主」にしても、どのようなファッションをしようが、当時その服装が流行っていようが流行っていなかろうが、服装というものは自然と陳腐化してしまうものだ。
だから、時間が経ったら「ダサい」という観点から言えば、けっきょくはだれもが平等、ということも言える。

なんでこんなことをわざわざ書いているかというと、ファッションというのは特定コードにのっとった差異化ゲームである、ということをわざわざ明示しないと、先の山本夏彦のドブネズミスーツの話もあるように、「まじめに、地味な服装をした方が『正しい』」ということになってしまいがちだからである。

もちろんファッションを規定するコードは、TPOに合わせて変化しているにすぎない。「何かデタラメなかっこうをしているバカな若者がいて、一方できちんとした着こなしをしているマジメな人がいる」という対立図式はまったくのナンセンスなのだ。
(だから、TPOに合わせなければどんな服装でも「ダサい」ということにもなる。)

・その3
そして、ここからが大切だが、ファッションを規定するコードをいったいだれが決めているのか、ということにまで思考をめぐらす必要がある。
それは何らかの権威である場合もあるし、慣習である場合もある。ファッション界のだれかが強制的に決めている可能性もありうる。

ただし、「だれかが決めているのだから、それに従うのは反対だ」という物言いにも自分は賛同できない。そうしたことは、地味派、派手派、双方が主張しがちなのだが。
「地味派」は、浮草的な流行を「ファッション界の陰謀」として退ける。
派手派は、「地味派の規定するコード」そのものが権威ではないかと批判するわけだ。

しかし、別に革命を起こすわけではないので、ファッションの問題というのはけっきょくは「どんなコードに寄り添うか」ということに帰結してしまう。だから、「コードそのものの批判」は成り立たない。

人間が社会生活を送っており、どんなに「ファッションなんか関係ない」と叫ぼうが、服を着ているかぎり人々は、何らかのコードに強制的に乗っけられているものだ。それがイヤなら全裸で歩くしかないが、「ハダカで路上を歩く」という行為自体が、何らかの思想に割り振られることもまた自明なのである。

何が言いたいかというと、わりとマジメなタイプの人のファッション嫌悪というのは、浅薄な方向に流れやすいということなのだ。

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