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・「エスパー魔美」(1) 藤子・F・不二雄(2009、小学館)

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本作は77年から「マンガくん」(後の少年ビッグコミック、ヤングサンデー)に連載された。ちなみにアニメは連載開始から10年後の87年から。
明るくて元気でおっちょこちょいで、でも人の悩みや不幸をだまって見過ごすことができない中学生の女の子・魔美に、ある日超能力が発現する。魔美は自分の超能力を使って、人々を助ける努力をするが……という話。

古い作品なので、また例によって自分語りをします。


・その1
掲載誌であった「マンガくん」が創刊したとき、自分はリアルタイムで購入していた。学年誌と少年サンデーの年齢差を埋めるかたちで創刊されたということで、自分はドンピシャなターゲットだったと言える。隔週発行で、確か読みきり作品を多く載せる方針だったと記憶するがくわしいことは忘れた。
ただ、「新創刊の雑誌に立ち会えた」というワクワク感があったのを覚えている。

さて、「エスパー魔美」は、掲載誌の性質上、「ドラえもん」などの学年誌掲載作品よりも若干年齢高めの読者を想定して執筆されている。再読してみて、その設定や構成が絶妙なので舌をまいた。

まず、魔美の超能力の設定である。「物体が衝突するエネルギーでテレポーテーションできる」、「手が動かせないとテレキネシスは使えない」などの、作劇上重要な設定が、SFマインドあふれる説明で少しずつ登場する。
超能力というと何でもできてしまうイメージがあるため、力に制限を与えたり、魔美が事件に遭遇しやすいように、人の危険を察知できる能力を付けたりというさじ加減がうまい。

次に、魔美と魔美を頭脳でサポートする同級生・高畑くんとの関係性だ。
まず、高畑くんの設定がすばらしい。頭がよくて、中学の勉強なんて何もしなくても常に100点。しかしスポーツはからっきしで、超能力に憧れを持っている。
魔美のように何も考えないタイプに超能力があり、理知的な、超能力を研究できそうな高畑にはその片鱗もないという皮肉。
一方で、魔美の超能力の「使い方」をサジェスチョンし、事件を解決するための作戦も立ててやる。読者への説明役としても重要だが、バカ正直で気のいい一面も描いている。
「魔女・魔美?」というエピソードでは、魔美がのぞきの疑いをかけられるが、このとき、相談を持ちかけられた高畑は魔美に目を合わせようともしない。
読者は、一瞬「高畑も魔美を疑っているのか……?」と思うがそうではない。高畑にとっては、魔美を疑うことなど思いもよらないことだからなのだ。
常に論理的な高畑が、「人を信じることは理屈じゃない」と言うところは本当にグッと来る。
(ちなみに、このエピソードの最後のコマは、何度読んでもゾクゾクする。)

・その2
その次の「わが友・コンポコ」も、思春期の男女の関係性として面白い。
魔美には、金属を通して、思考を正確に読み取ってしまう能力があることがわかる。それで、高畑が自分のハダカを想像していることがわかってそれを本人に告げてしまうところが面白い。
少年マンガというのはスケベな男がたくさん出てくるものだが、高畑のようなくそまじめなキャラがそういう想像をしているというのはリアルタイムで読んでなかなかショッキングだったし、それが終盤のクライマックスにつながってからの二人の和解(?)までの流れが美しいのだ。

なお、「魔美」が描かれた1977年から「幻魔大戦」がアニメ化した1983年を経て、夢枕獏や菊地秀行の伝奇ヴァイオレンス路線が「気」とか「念法」とかいった東洋的神秘主義の概念を力の源とした作品が描かれ、荒木飛呂彦が「波紋」、「スタンド」という概念を創造し、90年代に入る頃にはいわゆる「超能力」というのは、フィクションの世界でもあまり用いられない存在になってしまった。

その後に展開されたのは、「スタンド」のような「作品内でのみ通用する力のルール」をつくり出していくという「ファンタジーバトルもの」と、マクモニーグルのようなテレパシー系の「超能力」であって、「科学と虚構のはざまに位置する存在」としての超能力には、逆にリアリティがなくなっていくのであった。

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