【絶望】・「無題、あるいは是是非非で行きたい」
さんざんイヤな話を聞かされて、ここ2、3日、いろんなことのモチベーションが落ちていた。
自分は、ここ15年間くらい、言いたいことの半分も言わないで来た。が、人生も残り少ないので、そういうことは今後できるだけやめていきたい。
以下は適当に垂れ流した文章です。
・その1
もちろん、「言いたいこと」というのは人の悪口とか低レベルな話ではない。
ただ、もう自分が考える「真実(あくまでも「自分が考える」が頭に付く)」をあまりに捻じ曲げるようなことはできるだけやめようと考えている。
「だれそれは性格が悪い」とか「だれそれは人徳がない」といった話は、リリースされた「作品」には何の関係もない。この10年間くらいであまりにもそういうところに問題が傾きすぎた。
いちおう単なる愚痴ではなくすために自分なりの考えを書くと、90年代初頭までは、あまりにも論者の人格とかそういうのを無視しすぎた。だから次の10年で論者を「いじる」ことがエンターテインメントたりえたのだった。
ナンシー関が、そういうことをよくやった。彼女が生前、指摘し続けたのは、「テレビ」というまな板の上で鯉がどのようにふるまおうと、アウトプットされるものは当人と、あるいはテレビの送り手すら含めた人々の意図とは違っている」ということだった。
もともと、テレビというのは「テレビが育てた人材」というのはアナウンサーくらいしか存在せず、その土壌は歌謡界だったり演芸界だったり映画界だったりしたわけである。
そういうところから人材を持ってきて、「テレビタレント」として機能させる。やってる当人たちがいかに自意識として、歌謡界の、あるいは映画界の出自を誇示したところで、アウトプットとして出てくるのは「テレビタレントとしての当人」というものでしかない、ということを、彼女は主張し続けたのである。
だが今では、もはや「テレビタレントの自意識とアウトプットされた印象とのギャップ」は、多少むずかしい本を読んでも理解できるレベルの人は、だれでもわかっているはずだ。
小泉元首相がパフォーマーであったことも、事業仕分けチームの蓮舫が悪役に見えるのも、結果でしかないことくらいは。
(そしてまた、いかに小泉が衆愚政治の象徴のように思われていても、やはり彼に荷担しないといられない人たちというのがいて、そのフレームは現在でも民主党にすり替わっただけである、ということも。)
・その2
だからもう単に「いじる」だけで何かを成し遂げた風になる時代ではないと思うのであった。やはり問題になるのは、なにがしかの「真実味」であると思う。「本当っぽい」でも何でもいい。
誤解されると困るから強調しておくが、私がここで言いたいのは数式の答えのようなきっちりしたものではない。
ただ、いじり、はぐらかし、ものごとをずらすことによる有効性は大幅に下がっているということは言えると思う。あるいは同じことをやり続けるにしても、念頭には置いておく必要があるだろう。
思えば、亀田一家の件が象徴的だった。もともと、亀田一家のパフォーマンスは前代未聞の拙さ・アナクロさ加減で成り立っていたが、それでも当初は支持者はいたはずである。
ところが、世間の認識は対・内藤戦での反則行為でひっくり返ってしまった。
一部のワイドショー文化人の「神聖なスポーツにあの態度は何だ」という幼稚な論理展開が、まずあった。
ボクシング界が、それまでのやり方では他のスポーツエンタメの世界よりも人気の面で落ち込んでいたことはだれの目にも明らかだったから、それは絵に描いたモチ、単なる精神論でしかない。
なにしろ、亀田一家は現役の他のチャンピオン(もちろん内藤含む)よりも知名度を獲得していたのだから、これはビジネスとしては真剣に考えなければいけないことであるはずだ。
次の段階で、「エンタメなんだからいいじゃないか」という擁護論が出現する。主にプロレス的演出を理解している人からそういう意見が出てきたが、私はこれにも与することはできなかった。
亀田一家のパフォーマンスには、ヤンキー的微笑ましさも、それとは逆の「テレビに出していいんだろうか」的なヤバさも無かった。内藤戦でワイドショー評価が逆転してしまった当時の亀田擁護論に、自分には単なる状況に対するアンチ的なスタンスしか見出すことができなかった。
自分は、亀田一家の演出方法の出現と失敗は、今さら言うのもなんだが現代を象徴していると思う。現在、再検討してもそう思う。
まずは、送り手が「亀田演出」を「アリ」だと思ってやっていたというところがあり、そこに何らのおとしどころも用意していなかった点。
次に、それが見事なまでに一般大衆にソッポを向かれたという点である。
・その3
亀田の話ばっかり書いてもしょうがないが、とにかく「亀田演出」には、「この程度は倫理観がなくてもいいんだ」という送り手側の甘い見積もりがあり、しかしそれは100パーセント見当違いでもなかったはずなのだ。ところが、それがある臨界点(試合での反則行為)で一気に逆転する。
つまり、亀田一家に興味を持っている層でも、何もメチャクチャやって強ければいいんだと思っているわけではない。どこかに「かわいげ」のようなものを要求していて、そこには倫理観も含まれる。
これは朝青龍人気の微妙さにも言えると思う。アンケートを取ったわけではないのでテキトーに印象論として書くが、少なくとも朝青龍は、若・貴ほどの「面倒がない感じの人気」があるわけではないと思う。強さから言ったら、もうちょっと人気があってもいいはずだ。
やはりここにも、朝青龍という力士が「別に問題にもしていない」ふるまいの倫理感というか「どう見られてほしいのか」ということと、観客側とのギャップを感じる。
スポーツ選手で言えば、「昭和の大選手」というイメージが投影されていることを承知でふるまっているのが松井で、それを拒否しつつ、「新時代のヒーロー」の役割を引き受けているのがイチローだと思う。
とにかく何が言いたいかというと、現状、「倫理感なんかなくてもいいんだ、秩序なんかなくてもいいんだ」と考えるのは送り手が、一般大衆の嗜好を甘く見積もりすぎているのではないかということだ。
もうちょっと景気が悪くなって格差が進むと、さらに一般人の嗜好が情け容赦のない強者礼賛か、あるいは傷をなえあう道化芝居になるかもしれない。しかし、過渡期として現在、「倫理感の問題」は根強く残っているはずなのだ。
・その4
私は今で言う「ハーレムもの」、自分で命名したところの「SFおしかけ女房モノ」というジャンル内ジャンルを提唱し、考察していた時期があるがほとんど理解されなかった。
(むろん、「落ちもの(この言葉、ジャンルに愛がなくて大嫌いだが)、「ハーレムもの」の根底には、かつての「男の倫理感」であるところのマッチョイズム、男根主義的なものが潜んでいることを喝破している人もいる。)
だが「ハーレムもの」におけるマッチョイズムも、今はほとんど形骸化してしまった。現在ではむしろ、「オトコノ娘」と命名された女装男子の方が話題だろう。要するにトランスセクシャル視点で見て行った方が、たやすく肉体変容を描けるマンガ、アニメ、ゲームは通史として理解しやすいのである。
が、私がそういったエンターテインメント作品の中にあるマッチョイズム、男根主義的なものに注目し続けたのは、それが倫理感の形成のとっかかりになるから、という感覚があったからだ。
(むろん、真逆の方向性としてはフェミニズム観点、というのもありうる。)
ところが、大きな流れとしてはオタク向けエンターテインメントは、そういう部分を放棄する、あるいは解体する方向に向かった。現状では「男であること」の抑圧から離れようとする傾向が見られるのである。
が、既成の価値観を解体することは確かに快感だが、解体の後にはぜったいに空位になった何かがある。
実はハリウッド映画はその「空位になっているもの」に、常に意識的である。そこを見て見ぬフリをするのが、日本人の処世術なのか、あるいは本当に何も気づいていないのか。
朝青龍にしても、かつてのホリエモンにしても、「ビジネスライクですが、何か?」と言っているにすぎない。自分はそのあたりのことにはかなり失望した。
一方で、亀田一家の失敗は「倫理感なき不良」というのを押しとおした点にある。
ジムの会長か、父親か、だれがプロデューサーだか演出家だか知らないが、彼らは「愛される不良像」をまったくわかっていなかった(案外、父親のワナビー根性を何もわかっていないジム会長が勘違いして受け入れてしまったのではないかと思うが。あそこまで拙い不良演出は、手練れのプロレスなどからはちょっと出てこないタイプのものだと思うので。)
「ビジネスライクですが、何か?」という態度は、言ってみればシステム礼賛論というか人間機械論というか、ただそれだけのことで、そういうのに喜ぶ人というのはよっぽど、心の底から体育会系精神論や全共闘世代的感性を知っていて、かつ憎んでいる世代か、あるいはなんにもない状態を当たり前だとする、かなり若い層ではないかと自分は考えている。
「論理的に考えてふるまえば、光明が見える」というのは、確かに正論ではあるが実は現状ではカウンターにすぎない(と断言する)。
当たり前だが人間は機械ではないし、機械ではない人間がシステムをつくっているからだ。
確かに義理人情ばかり主張ししていると簡単にアナクロニズムに落ち込んでしまうのだが(みつを的、紳助のヘキサゴンファミリー的おとしどころ)、しかし今さらシステムだの人間を機械としてとらえろと言われてもね、それは広義の文学がやる領域じゃないし、いやそういうのを扱うからこそ新しいんだっていう人もいるかもしれないけど、だったらそれはもう昔の活字SFでやっていることだからね。
というわけで、私のストレス解消文章は終了。
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