【雑記】・「大量につくり飛ばされるものの鑑賞について」
このエントリに関連する事項として、メモ的に書きとどめておきたい。
それは「サブカルチャー的鑑賞態度」についてである。
サブカルチャー的な鑑賞態度として明確なものは、
「スルーされてきたけど、非常に丁寧につくられた作品を拾い上げて鑑賞する」
というものだ。
これは、通常の純文学などの鑑賞態度をそのまま周縁文化に敷衍させたもので、こういう鑑賞態度がひとまずいちばんわかりやすいし、それに対して異論はない。
よく、子供向け作品を評価する場合、「子供だましの作品はたいていダメで、子供に真剣に向き合った作品こそ本当に子供に支持される」という物言いがある。
あるいは、「一見書き飛ばされた、つくり飛ばされたものでもよくよく検討してみると真剣に、丁寧につくってある」という物言いもある。
しかし、それでは、「書き飛ばされ、つくり飛ばされ、そして読み飛ばされ、斜め読み、斜め観されてきた作品の評価はどうするのか」ということは、「真摯なサブカルチャー的態度」ではあまり検討されないのである。
あるいは、評価基準として「真摯につくられた、いい作品」の評価、拾い上げがまずあって、「書き飛ばされ、つくり飛ばされたモノ」は、「こういうのもいいよね」的に、サブカルチャー評価の、周辺領域としてフォローされる場合が多い。
しかし、現実には大量生産、大量消費の流れの中で、「書き飛ばされ、つくり飛ばされ、そしてあっという間に消費されていく」というケースも多いはずだ。
「書き飛ばされたものの中から、珠玉の名作を拾い上げる」こともサブカルチャー的態度だが、それは物事の一方の面しか観ていない。
世の中には「書き飛ばされて、読み飛ばされる」ことが役割の作品も大量に存在するのだ。
そもそもが、一部のマニアならいざ知らず、昭和三十年代から四十年代前半くらいまでのオトナというのは、現在のサブカル青年が鑑賞するようには、小説や映画を鑑賞しなかったのではないかと思う。
あるいはそれは、ドラマ「花より男子」にハマって毎週夢中で観ていた女性とも違う鑑賞態度である。
昔は「中間小説」というのがあって、そういうものは純粋に楽しまれ、ひと時の愉悦を与えて、そして忘れ去られた。かつての、歌謡曲を聴くみたいな感覚だったと思う。
あるいは「頭の体操」などのパズル本や、映画のノベライス、新聞や雑誌に掲載される小粋なコラム、町で見かけたちょっとした面白いことを取材した記事などは、たとえば似たような鑑賞態度で消費されてもいた「マンガ」とか「小説」とか「映画」が「作者の存在する作品として正しく鑑賞する」というふうに後年、変えられたようには、たぶん永遠に変えられない。
ある時期までの「テレビ番組」も「鑑賞されたはしから忘れ去られる」存在だったが、現状では多少変わってきている。
「いつまでも永遠に鑑賞者の心に残る」作品も大事だが、「一時の愉悦を与えて、瞬時に忘れ去られていく」作品だって、それはそれで役割をまっとうしているのである。
かつての多くのオトナというのは、それほどエンターテインメント作品に執着しなかった。たとえば、マニアでもなかった父親の本棚にアガサ・クリスティーや、イアン・フレミングや、松本清張や、山田風太郎の文庫本を発見する人もいるだろう。
しかし、それは別に、ものすごく真摯に読まれたわけではなく、出張先のひまつぶしに読まれてすぐに忘れ去られ、ムカシの人特有の「もったいない」という感覚から本棚におさまっているだけかもしれない。
似たようなことはとくに70年代に氾濫したUFOや超常現象本や、矢追純一UFO特番についても言える。なにも読んだ人、観た人が全員真摯なビリーバーというわけではなく、たいていの人はすぐに読んですぐに忘れた。
大量消費文化に特別な思い入れを持つのは、大人ではない「青年」の感性である。
それが悪いとは言わないが、鑑賞態度としてはワンオブゼムでしかないことは、再検討されるべきだと思う。
なぜこうした評価があることの可視化が定着しにくいかというと、実は旧世代のテーマ主義、極端な例でいえば革命に近づいているかどうかだけを作品の評価基準とするらしい「プロレタリア芸術論」みたいなものが否定されつつも、やっぱり至高の評価基準としては現在でも「テーマ主義」があるからだ。
サブカルチャーは根源的に(いかに消臭化されたとは言っても)社会変革主義的な態度があるため、「オトナが楽しんで、すぐに忘れられてしまう作品」を「そのようなもの」として受け入れる、ということが認められにくいのである。
実は「物事を斜めに観て笑う」という態度にもいろいろな、他の鑑賞態度との「通路」のようなものがあって、「すぐに忘れ去られるものをそういうものとして消費する」態度に近い場合もあるのだ。
コレが「笑いを通して背後にある社会について考察する」みたいなところに基準があると、「ただ笑いたい」という人と摩擦を起こすことになる。
もちろん、それは「取るに足らないものを拾い上げてわざわざしゃぶり尽くして見せる」という「青年的態度」とも関わってくるわけだが、さすがの温厚な私もこの辺のことがわかってない人が多すぎるので、暗澹たる気持ちになっています。
| 固定リンク
「評論とは」カテゴリの記事
- 【サブカル】・「鬼畜系とは何だったか」(2018.06.02)
- 精神(2018.04.19)
- 【映画】・「ブラックパンサー」ネタバレあり(2018.03.09)
- ・「豪画沙」(下) 永井豪(2017、講談社)(2018.02.23)
「サブカルチャー的希望」カテゴリの記事
- 4月12日(金)「かに三匹&新田五郎のアニメとマンガのマニアックな話をユルく語る会Vol.12」(2019.04.11)
- 精神(2018.04.19)
- 【雑記】・「入門編が必要かどうかは、ジャンルによる」(2014.12.01)
- 【書籍】・「サブカル・ニッポンの新自由主義」 鈴木謙介(2008、ちくま新書)(2014.11.10)
- 【書籍】・「10年代文化論」 さやわか(2014、星海社新書」(2014.11.08)