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【雑記】・「やわらか柔軟剤ゴックゴク一気飲み」

山口和彦監督、「怪猫トルコ風呂」鑑賞。
於:銀座シネパトス。
1975年の邦画で、赤線が廃止になりトルコ風呂が開業、室田日出男にだまされ続けたけなげなトルコ嬢(谷ナオミ)が、さんざんひどい目に合わされた挙句、化け猫となって復讐する。

2年くらい前に観て、あまりに面白かったのでもう一度観に行った。
で、やっぱり面白かったので大爆笑して帰ってきた。

で、ひと晩経って感想を検索していたら、以下のようなブログにぶち当たって驚愕してしまった。
(文章は適当にまるめてある。)

「観に行ったら劇場に笑い屋が大量発生していてうんざり。殿山泰司(悪徳トルコ風呂経営者)が、室田日出男とその愛人で殿山の妻でもある真山知子(両方悪人)にめった刺しされるシーンにまで馬鹿笑いしていて不愉快だった。
旧作を上からのいびつな目線で観て競い合うように爆笑していた映画秘宝ファンのような観客には心底うんざりした。」

実は、ものわかりのいいオッサンのふりをすれば、「映画館で笑うところではないところで笑う客」という問題は以前からある。

・その1
大槻ケンヂがエッセイで、
「空手バカ一代の映画を観に行ったら、ゲラゲラ笑っていたお客さんが極真の門下生かもしれない男性に一喝されていた。その門下生かもしれない男性にとっては大山倍達は師であり、師の映画を笑われることは非常に不愉快だろう。こういう映画は、笑いたいところをこらえて笑ってはいけないのだ」(大意)
というようなことを書いていたこともある。

私自身も、「明確に『信者』が観るためだけの映画」を観に行ってわざわざ大爆笑するようなことはない。
その会場においては、自分は脇役だから。
主役は信者の方々。

それに、「モノをナナメから観る」という「視点」があまりに定着しすぎてしまったために生じるクリエイター側の不愉快さ、あるいは鑑賞のゆがみ、というものを感じることもある。

というか、こちとらそんなことをもう20年くらい考え続けているのだ。
笑う方だって、伊達や酔狂じゃないんです。

一方で、井口昇監督の「片腕マシンガール」という映画がある。
弟を殺され片腕を切り落とされた女子高生がマシンガンを装着して復讐するという作品だ。

この映画は作品の冒頭に監督自身が登場し、鑑賞法をレクチャーしてくれる。

うろおぼえだが「残虐シーンでは盛り上がりましょう! 笑えるところでは笑いましょう! でも、倫理的に笑ってはまずいようなシーンでは笑うのを慎みましょう」みたいなことを言うのである。

もちろん、「怪猫トルコ風呂」と違って「片腕マシンガール」は、最初から「狙った」映画ではあるのだが、
それにしたって、「笑ってもいい残虐シーン」のある映画は存在する。

くだんのブロガーが不愉快に思ったという「殿山泰司がメッタ刺しにされるシーン」は、悪人同士の欲望がもつれて、悪人が悪人をブチ殺すという場面で……、なんでこんなこと解説しなきゃならないのだ、私は国語の先生か? と思うが(まさに「上から目線」で(笑))、欲にまみれて餓鬼道に堕した人間たちが、醜くともぐいをしあうシーンなのである。

恐ろしくても、やっぱり笑えてしまうシーンなのだ。あるいは笑えてしまうけど恐ろしいシーン。意味は同じだ。

真山知子が谷ナオミを拷問するシーンでも笑っている客がいてブロガー様は不愉快だったらしいが、その場にいた私が感じるかぎり、殿山泰司惨殺シーンよりも笑いは少なかった。
それは観客の倫理観でもある。

もっとも、谷ナオミが「緊縛女優」と言われていたから緊縛シーンを入れたのだろう、と思えばやはり笑ってしまう人はいるだろう。

・その2
「怪猫トルコ風呂」という映画、「化け猫映画とトルコ風呂をプラスして新機軸を狙ったもの」で、何か重大なことを訴えるというたぐいの作品ではない。
鑑賞態度としても、「恐がらせよう」というシーンで笑ってしまうというのは製作者側の意図と違っているといえば違っているが……それにしてもねえ、この映画をリアルタイムで観て恐がっている人がいたとも思えない。

不幸続きで化け猫に変貌する谷ナオミの境遇は確かに悲劇だが、「笑ってはいけない」っていうヤツはそこに感動して涙しろとでもいうわけ?
ブロガーの年齢がいくつかわからなかったのだけど、1975年時点でも、この手の映画はバカバカしいと思われていましたよ。当時の観客で爆笑するような人がいなかったというのは、こういう映画を真剣に観るような人がきわめて少なかったからだというだけのことである。

「映画秘宝の好きそうな客」って書いてあったけど、それをすれっからしの映画マニアだと批判するのなら、「笑ってはいい映画といけない映画」を十把ひとからげにして観客批判をするオマエだって何様なの、と。

そもそもが、「作品の鑑賞態度」というのはある時期まで(70年代初めくらいまで)抑圧的なものだったわけですよ。「こう観るべき」というのが決まってた。マジメなものは笑っちゃいけなかった。

そこに多様な視点を持ち込んだというのは、時代の流れから言えば観客の解放だったとすら言えるわけ。

で、それが広がりすぎちゃって、逆に「マジメな観客」を抑圧するという逆転現象が少し起こっているのかもしれないけれど、こと「怪猫トルコ風呂」の鑑賞態度に関していえば、あらゆる側面から検討して、これを笑わずにどうしろというのよ。

こういう映画こそ、個別具体的に検討しないといけませんよ。

・その3
あ、あとまた別の話を思い出したけど、何年か前に「ポルノの女王 にっぽんSEX旅行」という映画を観に行ったら、主演の荒木一郎が上映前のトークで出てきたんだよ。
知らなくて驚いたけど、トークが終わった後、荒木一郎がお客さんと一緒に鑑賞するって言って。

それで、どうしてもやっぱり笑えてしまうシーンも出てくるんだよね。それもはっきりギャグとはいいがたいシーンが。なにしろ主演の人と一緒に観ているわけだから、どういう態度をとっていいかとまどってしまった。
でも観客は笑ってましたよ。あきらかに荒木一郎ファンとおぼしき人が多かったけどね。
荒木一郎ご本人も、鑑賞後も上機嫌でした。

本来、ポルノとかホラーっていうのは、「笑い」と「驚き」と「恐さ」と「エロさ」っていうものが混然となっているでしょう。
でも、観客はどんなに複雑な感情が浮かんでも、笑ったり悲鳴をあげたりといった単純な態度しか取れないんだよ。
しかも、映画館で悲鳴をあげる人ってあんまりいないですよね。

恐くても、感動しても、本来の意味でのギャグシーンでも、「笑い」がこみあげてくるっていうのは、あるものなんだよ。

まとめ。
この手の「笑っていいかいけないか」っていう議論のときには、「笑うこと」の批判者に「つくり手は自分のどうにもならない心情をフィルムに焼き付けているはずだ」という思い込みが無意識のうちに前提としてあると思う。
いやよしんば監督の山口和彦がものすっごい真剣に、谷ナオミ演じる女性の不幸を描きたかったという可能性はなくはないけれども、しかしまあそういう映画じゃないと思いますよ。

プロレスで「真剣勝負なんですか」と言われて、「真剣にやってるから、真剣勝負だ」っていう話があるけど、映画でもなんでもそれと同じで、つくっている人はそれは真剣ですよね。そう思いたい。

でも真剣につくっているからといって、内容が真剣であるとはかぎらんでしょう。

もちろん、何でもバカにして笑っていいというものではないが、「笑えという明確なメッセージがないものに笑ってしまうとはどういうことかの検討」という歴史的背景をふまえない脊髄反射的な批判には、自分はいつも危機感を覚えている。

確かに「さあ笑ってやろう」っていう、それ以外の視点を持たない困った客というのもいるんだが、今回のエントリでは意図的に、そっち側ではない「マジメな観客」を批判することにした。

もう一度繰り返して書くが、今回のエントリにかぎっては、私は「鑑賞態度の歴史的背景を勉強しようともせず自分は旧作を理解していると思い込み、多様な視点を許さない頑迷な映画ファン」を批判する内容にしたので、文意を誤解しないでほしい。

追記:タイトル少し変えました。

関連エントリ:
【雑記】・「大量につくり飛ばされるものの鑑賞について」

【雑記】・「ホルモン教異聞」

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