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・「アンラッキーヤングメン」(1)(2)(完結) 大塚英志、藤原カムイ(2007、角川書店)

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野性時代連載。大塚英志原作、藤原カムイ作画のマンガ。
60年代後半から70年代半ば、そして最後には1997年まで、実在の人物とは似て非なるキャラクターたちを交錯させた作品。

連続射殺事件を起こした男・N、売れない漫談家・T、学生運動のセクトに所属しているヨーコ、警察官僚の息子で父親に反発ばかりしているゲイの薫らが、Tのシナリオに基づいて三億円強奪を計画する……。

・その1
大塚英志原作のマンガって、初めて読んだ。
一読して「チクショー、うまいなあ」という感じ。

中盤までずっと気になっていたのは、

「あまりに60年代、70年代の人物たちにしてはクールすぎやしないか」
「キャラクターの同時代に対する視線が、あまりにフィルターがかかったような、一歩引いたような感じになってはいないか」

ということなんだけど、コレは評論同様、大塚英志のクセなんだろうね。

で、作画の藤原カムイはそういう時代の空気を表現しようとがんばっているのと裏腹に、お話はすごく80年代~90年代的だと思う。
史実を下敷きにしているから、このお話はこの時代以外の設定はあり得ないんだが、それでも登場人物の心性は、私は80年代~90年代のものだと思いますね。70年代に屈託ある青春を過ごした80年代、90年代人の感性だと思う。

いわば、「時代に乗り遅れた感」、「時代と自分がどうにもシンクロしないもどかしさ」というか。
(本作が影響を受けているであろう大江健三郎に「遅れてきた青年」っていう作品もあるけど。)

そして、それだけだったら「もう21世紀なのに、まだそんなこと言ってんのか」で終わっちゃうんですよ。でもこの作品はそうではない。きちんと2000年代の物語として機能してる。それには感心せざるを得ない。

・その2
っというか、60年代以降から現在まで、同時代的な「何かが変わる」という感覚はすべてがニセモノになってしまっている、と本作は語る。
ここでは「デカい一発が来ても今やってることをやめずにいよう」という中森明夫的な前向きな諦念も、「いくら待ったってデカい一発は来ない」と言った「完全自殺マニュアル」当時の鶴見済の時代感覚も、「モノホンの変化に触れることができないところからくる発想」という点では等価となる。

ここで「何がどんなふうに起ころうが、それはマボロシだ」みたいにあきらめ気分を描いてしまったら、それは80年代で時間が止まってしまっていることになる。実際、オウム事件も起こったし同時多発テロ事件も起こった。「何も起こらない」なんてのはウソなのだ。

本作で私がいちばん感心したのは、登場する若者たちが、時代を代表する大きな事件に関わり、ときにはその時代を決定づける所業をしておきながら、そのフィードバックを常にズレたかたちで受け取り続けているということ(だからこそ、登場人物たちは「アンラッキーヤングメン」)。
かつて繰り返された「何も変わらない、何も変えられない、事件なんか起こらない」という80年代的な言い方は、その当時の「気分」を体現してはいたのだろうが、しかしその文言自体は間違っていると思う。

ただし、やはり時代の気分として完全に間違っているとも言いがたい。その問い直し、その言い換えが本作の骨子ではないかと、自分は思っている。
(同じ作者の「おたくの精神史」も、やはり同時代の言説の語りなおしという要素があった。それに似ている。)

確かに、いつの時代にもその時代状況とそれぞれの若者たちの立場にはズレがある。そのボタンのかけ違いに対するもどかしさを、よく描いていると思った。

・その3
もうひとつ感心したのは、70年代のアメリカンニューシネマ的というか、その当時流行ったプロット……革命家やそれに近い人物が反乱を起こすがそれは失敗に終わる。しかし最後の最後に、権力側に一矢報いるトリックが仕掛けられているというもの……を、換骨奪胎して「それ以降の時代の物語」に仕上げている点だ。

たとえば冒頭の「拳銃を奪ったことで運命が変わる」なんて出だしは、過去にものすごくたくさんそういう作品があったわけで、ラスト近くの「テロリストが原爆を入手しようとする」というのも、またよくあったプロットだ(映画「太陽を盗んだ男」なんかがすぐに思い出されるだろう)。

ところが、通して読んだときそこには確かに2000年代までの(少なくとも、物語の結末の年代であろう1997年までの)時代状況がある。
そして、実はそれはゼロ年代的な提言の失敗をも予見してるんだけど、嫌味はないよね。それは描こうとしていることが超時代的だから。

さて、ただひとつ疑問に思ったのが、主人公格のNが二人の女性に惚れられるという設定である。

なぜそんなにNがモテるのか? は、映画や小説で描くとすればわりと違和感がないはずだ。映画なら二枚目の役者が演じればいいし、小説ならそれなりの説明ができる。
しかし、マンガだとそこはいちばんむずかしい。「普通なのに、モテる」という描写はマンガやアニメでは困難なのに、また同時に要求されることも多いのだ。

たぶん狙ってやっているわけではなく、物語構築において自然にそうなったのではないかと思うけれど、作者あとがきにあるような「登場人物の内面」よりも、そうした設定上のベタ、に関しては、ちょっと気になったところではある。
もしかしたら「ベタをあえて利用しよう」という意図があったのかもしれないが、それにしては藤原カムイはリアル志向で描いていた気がするので。

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