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【雑記】・「『上から目線』の話」

朝日新聞に「上から目線」ということに対する対談記事が載っていると知ったが、過去のものだしネットにも上がっていなかった。

実は前から「上から目線」の問題に関しては気になっていたので、その記事に関して興味があり、読んでみたいのだが図書館などに行くほど時間がない。
そこで、「その記事についてのテキスト」を読みながら私見を書く。

したがって、別に逃げ口上というわけではなく、以下のテキストは該当記事への直接的な感想ではないことはお断りしておく。
なにしろ、全体を読んでいないのだから直接的な感想の書きようが無い。

・その1
たいていの場合、知識人層からは「安易なポピュリズムの所産として、物事の真偽よりも気分的な勝ち負けが問われるようになってしまった」ことの象徴として「上から目線」批判は行われる(再度お断りしておくが、該当記事を読んでいないまま、書いている)。

しかし、80年代以降のポピュリズム称揚からそのまま、現在の「上から目線批判」が出てきたと指摘することが、正しいかどうかは、なかなかむずかしい問題だと思う。
そこを整理しないと、話が前に進まないのではないか。

たとえば今回の対談相手は呉智英なんだけれども(なんて言っているのか知らないのでもどかしいが、とにかく今回の対談は読んでいない)、80年代、呉智英の「上から目線」は、「封建主義者」という、当時本気か冗談かわからない、少なくともハタから観ればよくわからない立場から仮構されたもので、それを本人も意識してやっていた。

極端なことを言えば、デーモン小暮閣下が「悪魔」の立場から傲慢なことを言うのと立ち位置的にはほとんど同じだった。

80年代、すでに「インテリ」という存在は成り立ち得ないとされていた。だからこそ、呉智英は自身を「インテリゲンチャ」だとも言っていた。「知識人が、上からの立場でモノを言う」という行為は、80年代当時、少なくとも昔ほどにはその神通力が通用しなくなっていたのだ。

実際、80年代後半から90年代初頭、私はいわゆる「論客」と言われている人が、なんでこんなに過剰なまでにケンカごしなのかよくわからなかった。
「おまえのチンチンはきっと小さいに違いない」とか「そういうことを指摘するということはおまえ自身のチンチンが小さいのだろう」と、比喩でなくそんなことまで論壇誌でやりとりしていた。
(「ケンカごし」と「上から目線」はニュアンスが違うと考える人もいるだろうが、相手を叩きのめそうとする戦術を取っている、という意味では私にとっては同じではないが、近い。)

確かに、議論で相手を徹底的にやりこめるときには、論旨以外のところでやりこめたり、あるいは恫喝的なことも必要なのかもしれない、と、そのとき私は頭の中で解釈した。

要するに、特定の世代の論者の「スタイル」でしかないと思うようにしていた。

・その2
ところが、私が「議論」とか「論争」のやり取りを文章上で目にした現在70代くらいの人、その下の全共闘世代の人、そしてそのまた下の世代の人、と、論者が若くなってもそのケンカごし、上からのスタイルは変わらない。

そう感じたときも、「そういうものなのだろう」と思うしかなかった。

慎重に解釈すれば、「ケンカごしであること」、「コワモテであること」、「上から目線であること」が必要な「業界」なのかもしれないとは思ったが、率直な感想としては「そういうところまで受け継がなくてもいいのに」と、ずっと前から思っていた。

何が言いたいかと言えば、「上から目線」を指摘する態度というのは、
「知識人の論争時の態度を、ものすごく何かにくわしいわけでもない人がスタンスとしてマネしてきて、それがネットの普及により一般化した」という経緯がまずあり、
その上で、「ものすごく頭がよくて何かの決意のある人ならともかく、そこら辺の人間にそういう態度を取られたくはない」という意識が、混入して出てきた指摘が「上から目線批判」だと思う、ということである。

あるいは、マンガで「ゴーマニズム宣言」ってのがある。
この作品における「ゴーマニズム」というのは、まあ「上から目線」ということだろう、やはり。

小林よしのりは連載当初、知識人に敬意を払っていて、自分は知識人ではない、だけれど言いたいことがある、だからゴーマンかましてよかですか? っていう流れだったと記憶している。
謙虚の裏返しだったのだ。

ところが、今の若い世代……何歳くらいかな、とにかく大学生くらいのときにはすでに小林よしのりイコール傲慢な人、というイメージがついていると思う。
小林よしのりの知識人に対する敬意の裏返しのゴーマン、という流れも理解していないはず。

とにかく、

・いわゆる知識人が知識人であるというだけではありがたがられなくなってしまった、そういうことは30年くらい前から起こっている
・知識人や論客の態度そのものが、80年代くらいから傲慢だと思われていた

上記の流れからの「上から目線批判」というものもありうるということは、指摘しておきたい。

・その3
第三に、知識人そのものの苛立ちの発露である「『上から目線批判』批判」について。

私は、「間違いを指摘して真実を教えさえすれば、それを一般人が聞いてくれる」ということ自体が思い込みで、知識人側からの逆ギレだとすら、思う。

とくに血液型占いやらなにやらの疑似科学批判において、「間違いを指摘すればそれでおさまる」ということはほとんどないはずだ。
もちろん、話を進めるうえで、まず最初に間違いを間違いだというふうに指摘しなければ始まらない、ということは言える。

しかし、手続きとして「間違いを間違いだ」と指摘するということと、それで相手が説得されるかどうかはまったく別の問題である。

ここで、前述の「ケンカごしである、傲慢である」ということが、果たして相手の説得上、有効なテクニックなのかどうなのか」という問題が浮上する(本当は、そんなものは30年前から浮上し続けているのだが)。

たとえば対等の立場で議論をする場合とか、あるいは教師と生徒、師弟関係などの場合は「上から強く出る」ことはある程度は有効ではあると思う。
そういう関係性だからだ。

しかし、頼まれてもいない、ゆきずりの人間に間違いを指摘されても、中には不愉快な思いをしたり、逆ギレする人も出てくるかもしれない。

また呉智英の話に戻る(繰り返すが該当対談記事は読んでいない)。

呉智英はサマツな間違いを指摘するところから、本質的論的な問題提議をするというテクニックに長けている論者で、私も好きでいろいろと読んでいる。

だが、前から疑問だったのは、常にあれだけのゴーマニズムを発揮しておいて、誌面論争のときにはケンカごしになっておいて、「間違いはだれにでもあるのだから、指摘されれば認めて謝ってしまえばよい」と書いていたことだ。

彼に限らず、学者や評論家というのは、一般人に「ゴーマンな振舞い方」はいろいろ見せてくれたけれども、私の知るかぎり「振り上げたこぶしの降ろし方」や「いさぎよい謝り方」などをお手本として示してくれたことがない。

物事の真偽や妥当性の問題において負けた方が負け、というのが論壇だとかなんだとかの、「そういう」シビアな世界なのかもしれない。
しかし、ネットに限っても大半の人間はそんな覚悟はできていないし、そんなルールに従っている意識もないだろう。

少なくとも、「教師と生徒」とか「師弟関係」という立場でない以上、
市場経済にさらされている場で言論活動をする以上、「自分たちが啓蒙する立場」が、「生徒でもあり、お客さんでもある」ということは当然のことではないのか。
お客さんは、そりゃときにはキレたりもするだろう。お花やお三味線の稽古だって、切れる生徒さんはいるに違いない。

そこをなだめたりすかしたりしてやっていくのは、「そういう仕事をしている先生」側のテクニックの問題にすぎない、と言えなくもないのだ。
そして繰り返すが、そんな状態はもう30年も続いているのである。

要するに「上から目線批判」を再批判してみても、それはやはり「知識人」という立場の優位性を、具体的な議論とは離れたところで再確認しようとするだけのやはりメタな批判にすぎないのではないか、というのが私の現状での認識である。

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