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【評論とは】・「評論には最後に希望があった方がいい」

このエントリの続きで、あくまでも私自身の個人的な志向で、「一般論としてぜったいこうあるべき」というのではないけど、評論には最後に希望がもたらされるべきだと思うんだ。

狭義の芸術作品の場合、必ずしも希望がテーマでなくてもいいと思う。表現は自由だし、人の心に揺さぶりをかける役割もあるから。「絶望」自体が味わいだったりもするのだ。

しかし、評論を少なくとも単なるエンターテインメントではなく、「実効性のあるべきコトバ」とするならば、「社会の現状はこうなってますよ、こんだけ絶望的ですよ、後は一人ひとりの足で大地に立って生きていってください」だけでは、極端なことを言えば「ノストラダムスの大予言」と変わらないよね。

人間、生活の中でやることは読書前も後もそう変わらない。勉強して、働いて、遊んで、クソして寝る。
それが、不安だけ煽られちゃあたまらんですよ本当。

また、まずまず「まとも」だと思われている評論における、「一人ひとりがしっかり地に足をつけて生きていってください」というよくある結びは、勇気を出して書くが、何も言っていないのと同じことだと思う。

話が逆なんだよ。「一人で地に足をつけて生きていこう」と思っている人が評論を読むんだから。
そうでない人だったら、違うことしてるよね。クラブで遊ぶとか、宗教に入るとか。

「一人で地に足をつけて生きていこう」という結論が、つい安易に持ってこられがちなのは、今の五十代以下の評論家の多くが自分たちのすぐ上の先輩である全共闘世代(何かと共闘したがる世代として解釈されている。本当かどうかは知らない)が大っ嫌いだからで、ここら辺の歴史的経緯を若者はある程度ふまえておくべき。

ハリウッドのエンターテインメントとか、あるいは「サマーウォーズ」とかを観ていると心底思うけど、映画館を出たときに観客が「人間には希望があるかもしれない」って感じていられるように、っていうことに送り手は心血を注いでいるわけだよね。

それほどの熱量というものを(まあ、評論に熱というものが必要かどうかという議論は成立するにせよ)、どれほどの評論が持っているのかという気はする。

単に読者の知識のなさをあげつらって警告して脅かすだけで、読後にみんな神妙な顔になって「状況は悪いけど、生きていかなくちゃいけない」みたいのは、ホント15年くらい前から思っているけどもうたくさんだ。

だって書いてる側は、私の読書体験から言ってもバブル前もバブル中もバブル後も、いつも同じような神妙な顔で書いているわけだから。
バブル前もバブル中もバブル後も、いつも「警告されるべき、胡散臭い世の中」ってのは本当かもしれないけどさ、こちとらの生活実感としてはぜんぜん違うわけじゃん。

そういう深刻ぶりっこが嫌いで、自分はオタク的言説に大きく傾倒していったのだけれども、15年も経つとオタク陣営も似たような感じになってきちゃってね。

本当に、希望について語るのはむずかしいと思う今日この頃ですよ。

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