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・「オバケのQ太郎」(1) 藤子・F・不二雄大全集(2009、小学館)

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藤子・F・不二雄の全集が刊行されることになり、ながらく絶版だった「オバケのQ太郎」が、どうやら相当数、全集におさめられるようである。
この単行本はその第1巻。少年サンデーに連載された旧オバQが収録されている。
今現在のギャグになれた人が読んでどう思うかはわからないが、少なくとも私は感動した。

以下は、ただの自分語りです。

・その1
藤子不二雄は(FもAも)、石森章太郎とともに自分にとっては特別なマンガ家だ。
自分の、幼少期の人格に多大な影響を与えている人だからだ。

もちろん赤塚不二夫も好きだけれど、赤塚不二夫の作品には「路上のアナーキーさ」というべき雰囲気が常にあった。
チビ太もイヤミも、どこから沸いて出てきたのかわからない、みなしご的なキャラクターであると思う。本当に孤児かどうかは知らないが、そういう「路上のバイタリティー」があった。そう言えば「レッツラゴン」も、まったく親に面倒を見てもらえないパワフルなガキの話だった。
「バカボン」などは、「バガボンド」(もちろん本来の意味の)から名前を付けたというではないか。
後付けかもしれないが、赤塚不二夫にはそういう意志があったということである。

対するに、藤子不二雄は違っていた。
藤子不二雄は、「路上のバイタリティー」を持った子供もまた、無意識のうちにだれかを抑圧していることを知っていた。ジャイアンとのび太の関係は、そういうものだった。
おそらく意図的に、ジャイアンとのび太の家庭の収入格差は描かれていないが、ジャイアンの家の方が貧乏であることは見れば察せられる。ジャイアンの方が、どちらかというとストリート系なのだ。
ちばてつやや水島新司の作品ではときとしてそれだけで「正義」と思われる「ビンボーな家の子供」が、実は悪役側に回っているのがジャイアンではないかと思う。

もっとも、のび太とジャイアンの関係性は、藤子不二雄作品全体からするとやや極端ではある。

たいていは、もうちょっとはマシな少年が主人公だ。「オバQ」における正ちゃんだって、のび太ほどダメ人間ではない。
ただ、正ちゃんにしても、「パーマン」のミツ夫にしても、「ハットリくん」のケン一にしても、どこか中流家庭的なおっとりした感じがあるのが特徴で、裸足で野原を駆け回っているような少年マンガの主人公にも憧れたが、おっとりタイプの藤子キャラに自分はよりシンパシーを感じていた。

・その2
藤子不二雄は、自分にとっては「卒業すべきマンガ家」であった。
だから、全部を読んだわけではない。「好き」という気持ちだけは強いが、マニア的に集めたという記憶がない。
オバQではなく「ドラえもん」の話になるが、藤子不二雄が「ドラえもん」で提示したのは「子供もやがては大人になり、人の親になる」ということで、それはご先祖様が果たしてきた義務であり、やがてのび太が果たすべき責務でもあった。
ドラえもんは、やがてのび太の元を去ることが織り込み済みの存在であった。

そこで導き出される結論は、「少年は大人にならなければならない」ということだ。「劇画オバQ」でもそうだ。
あれほどまでに児童マンガ、少年マンガの傑作を描いてきた藤子不二雄は、また大人になることの痛みや苦味も同時に描いていた。
これは本当にすごいことだと思う。

そういうわけで、自分は中学生になったと同時に、ほとんど藤子不二雄作品を読まなくなった。
マンガなどさっさと卒業し、大人になって職業について、新たなる家族をつくらなければならない。
それが藤子不二雄が提示した未来像だった。藤子不二雄のファンで、彼の理念を実践するとなれば必然的にそうなるはずなのである。

藤子不二雄、とくにFは鉄道模型ファンであることなどからオタク的要素の強い作家だと現在も思われている。
が、オタクとはものすごく大雑把に言って、「過去の大人が捨て去ってきたものを捨てずに大人になった存在」である。
藤子不二雄は、「マンガ家」という特別な職業だからこそ、大人になってからもオタクに近い生活ができたのであって、それは当時はひとつの特権だった(私にとっては、石森章太郎が仕事場の屋上にピラミッドパワーを得るための小さなピラミッドをつくったエピソードも、それに該当する)。

逆に言えば、「オタク」とは、少なくとも80年代以降の、消費者としてのオタクとはそうした「才能による特権」を大衆化した存在である。

それは、私にとって「藤子不二雄が示した道」とは、はっきりと別の道を行くということであったし、実際にそうした。
そうしたことは、自分にとっては小さくはあるが決断ではあった。

自分は、藤子不二雄が示した未来とは明確に、違う未来を生きていると思う。
もはやそれがいいとか悪いとかではなく、現実にそうだということだ。
それを自己認識できなければ、自分は今現在、藤子不二雄を読む意味がない。

・その3
さて、「オバケのQ太郎」の話に戻る。
オバQは、藤子マンガ史上で最も有名な部類に入りながら、おそらく最も「役に立たない」キャラクターでもある。
「空が飛べる」、「消えることができる」などの超能力も持ってはいるが、別に正太はそれらを利用するためにQちゃんと一緒にいるのではない。

それがたまらなくいい。

「ドラえもん」ではのび太が突出してまぬけだが、「オバQ」の世界ではだれもが均等にまぬけである。このように無邪気なキャラクターたちがお話を動かしていくマンガがかつて大人気を獲得したということを、日本人は忘れ去ってはいけないと思う。
まあ、Q太郎はありえないといえばこれほどありえない存在もないし、子供の頃、「ああ、藤子不二雄のマンガに出てくるような楽しいキャラクターは実際にはいないんだなあ」と、何度も何度も現実をかみしめたが、時間が経って大人になってみると、なぜか確実にいたような気がするから不思議である。

もちろん「いた」っつったって、本当にリアルに存在を実感していたというわけではない。
オバQや正ちゃんが遊んだりダラダラテレビを観たりしているところを観ていると、そこに何ともいえない「リアル感」を感じるということだ。

児童向けで「子供だけが活躍する」という作品は、数多い。が、自分はその辺のものにあまり(というかまったく)食指が動かなかった。観たり読んだりすれば面白いのだが、手が伸びないのだ。「それゆけズッコケ三人組」とかね。
「人間の子供だけ」でキャラクターを配置されると、自分にとってはたちまちリアリティがなくなってしまうのである。
だいたい、「ドラえもん」におけるしずかちゃんもそうだが、「紅一点」という存在は現実の子供社会にはほとんどあり得ないのではないか。
また、都合よくガリベンやガキ大将がつるんでいるというのもおかしな話だ。

だが、そこに「オバQ」というファクターが入ると、「まあ、ご都合主義のキャラクター配置でもいいかな」と思えてしまうのである。
だってオバケが存在する世界なんだもんね。

しかも、オバQで重要なのはまったくオバケの存在を知らない人でも、連載が回を重ねるごとに、オバQの存在にいちいち驚いたりしなくなるということである。

これこそが、「オバQ」のすごさの秘密だと思うのであった。「知らない大人が小学校の運動会に入れない」現代社会とは、真逆の世界だったのである。

いい意味での、まぬけ社会なのだ。

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