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【雑記】・「懐疑派にとって、信じていた時期は必要か?」

いまだに定期的に、「ナントカの陰謀」とか「宇宙人」とか「大予言で地球は滅亡」などのテレビ番組をやっているらしい。
実はこういう番組に関しては、懐疑派の中でも議論がある、はずである。「はずである」というのは、本当にそうかどうかは私が知らないということと、たいていはどこかでゴマカされて議論になっていないのではないか、という予断が自分にはある、という含みである。

たとえば、「真か偽か」ということだけを問題にするなら、そんな番組、ない方がいいに決まっているのである。
世の中を動かしているのはフリーメーソンでもなければ宇宙人でもない。バイトでも死ぬほど働けば、金は稼げるんだというようなことをホリエモンも言っていた(ホリエモン、もろもろ含めてザマーミロである)。

最初にお断りしておかなければならないのは、「オウムはサリンをまいた」という厳然たる事実があるということである。
90年代まで、サブカルの大きな流れとしてはオカルト・疑似科学は「泳がせる」というスタンスであって、それにはそれなりの理由があるが面倒なので説明はしない。
しかし、「単なる妄想」として泳がせてきたものが、「オウム」という「怪物」を育ててしまったという事実はあって、最後の一線で、「ないものはない」と言わなければならないとは思っている。

しかし、人間、情操教育上、幽霊だのUFOだの、ナントカの大予言だのをまったく信じないでそのまま「これはウソです、あれはウソです」ということを事実として受け止めて、それでオトナになっていいのかというと、それはそれで疑問な気がするのだ。

何かを信じている時期があって、それがウソだとわかるというのと、あらかじめそれがウソだと教えられるというのとでは、その後の感覚が違ってくるのではないかと思うのである。

もう少し踏み込んでしまうと、何かをウソでも信じて脳内で咀嚼する時期がないと、それがウソだとわかったときにウソとして身に着かないのではないか、ということと、
実は人間、漫然とくだらんことを信じてるよね、UFO信じてないアンタも「愛」は無邪気に信じてたりして、というようなことが言いたいのであった(笑)。

実は懐疑派とビリーバー(の一部)は、メンタリティにおいて「真実を知りたい」欲望という点では同一線上にあって、思考のベクトルが真逆なだけなんではないかという気が、ちょっとするのだ。
いやどちらも千差万別だとは思うんですけどね。

ただ「何かがウソです」というのと「何かが本当です」というのは、「言いたがり」という段階でやっぱり似てまさぁね。

だって、たいていの人は、超常現象に関してはつかず離れずで生きていて、そっちの方が多いですから。
「普通」とか「一般庶民」という意味ではたいていの人は踏み込まないのであって。

話を戻す。
とにかく、感覚として「本当だと信じていたこと」がウソだとわかると、人はいつまでも忘れない。疑惑と真相をセットで語られると、忘れてしまうことが多い。
実際には、まったくビリーバーの時期が人生にはない、優れた懐疑主義者の人もたくさんいて、まあスゴイ人のメンタリティの共通性なんて、考えれば考えるほど泥沼なんだが、

ウソ/本当、とはまったく別の座標軸で、「信じる/信じない」という問題が存在している、ということが大切な気がするんですよね。

たとえば、いくら「霊はいない」っていう人だって、大切な人が亡くなったら「成仏してください」って思うわけで、「おれは何にも信じてないけど、死んだら完全に無だけど、便宜上そういうふうに言ってます」っていう人は、そうはいないと思うし、それでいいっちゃいいんだけれども、でもやはりそこに矛盾はある気はするんだよね。

別の例を出すと、
「怪談」って面白いじゃないですか。でも、「怪談」というのは、感覚的にでも、信じられることじゃないと恐くないでしょう。
「墓地だった場所に学校が建ち、そこに霊が出た」という話は、恐い。
でも、「豆腐工場だったところに、トマト畑ができて、そこで人が緑色の立方体の幻影を観た」というふうに話されても、何のことだかぜんぜんわからない。恐くはない。

これって何なんだろう、って思うわけですよ。

そういうことを視野に入れないで、まあ、何も考えないで酒飲んで寝るだけならいいけど、多少なりとも頭でものを考えようとしたら、どっかおかしいことになるんじゃないかと思うんですよね。

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