【萌え談義・その9】・「チョコレート・ファイター」のジージャーは萌えか否か
ネットウロウロしていたら、映画「チョコレート・ファイターの主演のジージャーは萌えじゃないところがいい」と書いてあったので、その辺のことについて書く。
なお、「チョコレート・ファイター」は美少女がムエタイで悪人をバッタバッタとなぎ倒すアクション映画です。
確かに、この監督はいわゆる、狙ったあざとい「萌え描写」とは無縁の人だろうとは思うが、「チョコレート・ファイター」が「ジージャー」という一人の女の子を撮った映画だと考えた場合、当然彼女がかわいいから採用されたのであって、そのかわいいジージャーを撮ってしまえば、おのずとそれに萌えて来る人も出てくるのである。
しかも、たとえば「美少女が文芸大作で汚れ役をやった」という意味あいとも多少異なる。それは、本作に「ジージャーの美しさ、カッコよさを撮ろう」という明確な意図があるからである。
確かに「撮る側」にすれば、「あざとい描写をするかしないか」は重要な点かもしれないが、「観る側」からすれば、それはたいした問題ではないのではないか。
たいがいの「萌え」否定論者は「フィクションを通して女の子のかわいさ、美しさを受け取る」行為に対して安く見積もりすぎているように思う。自分と「萌え論者」にわざと線引きをして、問題を複雑にしているのだ。
とくに実写映画の、しかも主役格の女の子を問題にする場合、「萌え/萌えではない」の議論は、少なくとも観る側にとってはあまり意味がない。
あるいは、問題にする「観る側」の人間は、私にとってはどうでもいい。
それこそ、監督レベルの人間が、スポンサーだとかタレント事務所などからの「あざとい描写を入れろ」という強硬がゴリ押しがあって不愉快だったとか、そういう話ならまだわかりますけどね。
そして、「萌え/萌えではない」という不毛な線引きをないことにして、あらためて謎なのは「実写版ヤッターマンの福田沙紀は、なぜあんなにかわいく撮られていないのか?」という点なのだが。
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