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・「蒼天航路」全36巻 李 學仁、王 欣太(1995~2006、講談社)

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簡単に言えば「曹操を主人公とした三国志」。
まあ、さすがに同時代に興味のない私も断片的に読んではいたのだが、「これくらいは通して読んでおかないと」ということで読んだ。
なお、私は吉川英治の三国志を赤壁の戦いあたりまでしか読んでいない。横山三国志も10巻くらいしか読んでない。「レッドクリフ」は観た。
そんな程度の三国志の知識しかない。
そういうことを前提にいろいろ思うところがあるので、つらつらと書いてみようと思う。

・その1 時代状況
もともと本作を通して読んでみようと思っていなかったのには理由がある。
それは、曹操が主人公だったからである。
もちろん、「本来悪役の曹操が主人公になるなんて……」という小学生みたいなことを思っていたのではない。

ウィキペディアによると、エンターテインメントの世界で悪役に回されていた曹操の再評価はずいぶん前から行われていたらしい。というか「吉川三国志」の曹操ってすでに新しかったんですね(知りたい人はウィキペディアを観てください)。
が、少なくともマンガの世界で曹操を主人公にして人気を得たのはおそらくこの作品が最初である。本作の連載が始まった95年、日本は初めて「右肩上がり意識」を持てなくなった。この頃、「義よりも理を説く男」が主人公となるのは、90年代という時代の要請であったと思う。

それでも、本作では「義の人」として劉備を重要なキャラクターとして描いているし、曹操にも「義」の部分が残されている。他の人物配置を見ても、送り手に「義よりも理」という割り切りがなかったのは明白だ。

別の角度から観てみる。
前々から疑問だったのは、「劉備を主人公としてしまうと、物語の前半活躍するシーンがほとんどなくなってしまう」という「三国志」という物語の構造上の欠点である。
実際、劉備が本当の意味で英雄として名乗りをあげるのは本作でも単行本も30巻を過ぎてからだ。
だから、「三国志」をマンガで連載すると、最悪の場合董卓を討ち取ったあたりで終了、という中途半端なことになってしまう。
いちばんトータルで歴史の流れに関与し、見ていて面白いのは曹操の人生だから、曹操を主人公にした方が連載マンガとしては確実に面白くなる。

やはり「曹操を主人公とした三国志」は、連載マンガとしては時代の要請なのである。

がそれでもなお、「不景気が続くと『義よりも理』になるんだよなあ」と思い、本作には手が出なかった。
実際、21世紀に入ってからも、いちいち作品名はあげないが「義よりも理」と説いて人気を得る作品は確実に多くなっている。
自分はそういう、「ここ10年の時代状況」が不愉快だったので、なんとなく本作にも手が出なかったのだ。

・その2 本作の曹操像
とはいっても、本作の曹操は多大なるロマンを残している。「常識にとらわれない天才」として描かれており、才走ったがゆえに敵もつくってしまう、というキャラクター造形であったようだ。「あったようだ」というのは、物語が終盤に近づくにつれて曹操の超人性はものすごいことになっていき、最終的にはほとんど超人というより神の領域に入ってしまうからである。
ある人から「曹操って、後半『ウォッチメン』のDr.マンハッタンみたいになっちゃうんですよ」と聞いて爆笑したが、実際、本作における曹操は物語が終わりに近づくにしたがって、すべてを俯瞰している『神』となり、それに対峙できるのは本当に『神』となった関羽のみである。

なんにしても、曹操は凡人のうかがいしれない一種のブラックボックスとして描かれており、「合理性」が何を考えているのかわからない人間から出てくるというのは、非常に面白いしまたリアリティのある描き方であろうと思う。

・その3 本作の劉備像
本来、三国志演義の劉備は、「西遊記」の玄奘三蔵と同じように「リーダーの理想像」として描かれいて、現在、マンガとしてそのままキャラをおこすと面白味のない人間になってしまう(そういう意味では、別の話だがキャラの中身は変えずに「三蔵を女性に演じさせる」という慣習をつくったマチャアキの「西遊記」は画期的だった)。

そこを、「夢だけはでっかく、ホラばかり吹くが戦争にはめっぽう弱く、だがどこか憎めないので仲間が慕ってくる」という、「チンピラの親分」のように描かれた劉備は本当に面白かった。
チンピラであるがゆえに、どんどん大きくなっていく曹操を尻目に敗走を繰り返す劉備は、「とつぜん大ボラを吹いたかと思えばまた敗走を繰り返す」という不思議なキャラになった。
だが「天下への夢」をいちばん魅力的に描き出すことができたのは実際問題、劉備の生き方だった。
浮世離れした天才・孔明との関係性ももう少し面白く描けるだろうとは思ったが、まあこの辺は仕方のないところだ。

・その4 原作者の死
物語で言えば「官渡との戦い」あたりで原作者の李 學仁が亡くなってしまったそうである。この件については、通常のいちばん最初に出た単行本にも確か特別な表記はなかった。
原作者の関わりは作品によって千差万別で、すでに途中から「原案」という表記になっていた李 學仁がどの程度先の構想まで持っていたのかは、作品を読むだけでは知るすべがない。

が、ひとつ作品を読み取んだだけで言えることは、よくも悪くも「それ以降」の本作が、えらくムラっ気のある作品になってしまった、ということではあろう(もちろん、それを魅力ととらえる考え方もある)。

曹操をスーパーマンとして描こうとするあまり、「赤壁の戦い」を「流して描いた」のはどう考えてもおかしいと思う。
もちろん「油断による大敗」とするようなベタな展開は望まないが、地に足のついた生身の人間が大敗を喫して何も精神に影響を受けないハズはない。

また、この頃孔明も超能力か何か(???)で曹操を誘惑するがはねつけられ、それによって浮世に降り立って曹操を邪魔しようと決意するという展開になるが、無理矢理にでも孔明が曹操と会談するシーンを入れてもよかったのではないか? とは思う。
さらに、それが伏線かと思いきや孔明の出番は大幅に後退してしまうのだが、この辺も「曹操の超人性強調のために孔明を矮小化させた」のがミエミエで、少し覚めてしまうところではある。

・その5 儒教VS合理性
本作では、曹操が儒教を重んじなかったことが裏テーマであると思う。あくまでも「合理性を追求した」のではなく、「反儒教」なのである。
このあたりも少々ブレがある展開なのだが、おそらく李 學仁は当初から曹操の「反儒教」を打ち出そうとしていたフシがあるから、物語を通してそれをまっとうさせたということなのだろう。

これまた便利なウィキペディアによると、現代中国では儒教・道教VS法家・兵家というのが思想上の対立軸としてあるようで、そこら辺を踏まえないとここらはよくわからないと思う。

ここで呉智英が80年代に、儒教再検討を唱えていたことを考えてみる。呉智英の構想としては、おそらく学生運動・政治運動がひっぱられやすい「合理性を説くことによる運動」、それそのものの中に非合理性が含まれていることを感じ、「どこまでも非合理を見据えながら、日常を破壊しないでよき方向に導く非合理」を追及する、という考えがあったように思う。

さらにはあえて「儒教」を選び取ることは、「よき大アジア圏」を形成できないかというでっかいところまで考えていたんではないか。

そのデンで観ていくと、本作「蒼天航路」にいちばん足りないのは非合理的な「闇の部分」であることがわかる。
もっとも、詳細は忘れたが曹操が「おまえには闇の部分がない」と言ってある人物を断罪するシーンがある。この辺が本作のニクイところで、本作における「闇」を一手に引き受けているのは曹操である、という面白いことになるのである。

・その6 最後に呂布について
本作を通してもっとも「闇の部分」を持っているとすればそれは呂布である。彼だけが、原始的な破壊衝動にかられながら、なおかつかろうじて(あるいはそれゆえに)リーダーたりうる存在ということになっていて、そうした彼の非合理性をも包含し、天下を取ろうと画策するのが軍師の陳宮である。
全編通して読むと呂布のエピソードはけっこう記憶に残らないのだが、ここで作品として「非合理な暴力性が時代を動かすかもしれない」というところに触れたのは明白だろう。ただし、呂布はあくまで曹操のコントロール下にある人物として描かれた。

つまり、時代ものというか前近代的な世界を描くときにネックになる「闇の部分、ダークサイド的非合理」は、ほとんど呂布とともに葬り去られる。次にそれが描かれうるとしたら関羽の死に至る戦いだったと思うが、まあその辺がテーマではないので致し方ない。
(なお、関羽と呂布は三国志演義だかなんだかで対照的な存在として配置されたキャラクターであるらしい。この辺のことも含めるとややこしいんだけどね。)

かくして本作における「合理VS非合理」のイデオロギー闘争は、どこかごまかされた感じで終わってしまう。
思えばたぶん「三国志演義」に出てくる孔明の呪術などは、そのあたりのバランスをふまえてのものだったのだろうね。

ま、なんにしても面白い作品でしたよ。

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