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【雑記】・「ひとりごとターイム4」

またひとりごとです。
擬似家族の限界について。
それと「生き抜いた人間が大人なのではない」ということについて。
第三に「もしかして、ポストモダンの行き着く果てはかたちを変えた社会主義か?」っていうことについて。


・その1
まず、擬似家族については、フィクションの世界では「失敗する」というオチが多かったりします。

「忍者武芸帖」だったかな、戦乱で親を失った子供たちが集い、コミューンみたいなものを形成するエピソードが出てきますが、確か内輪もめで失敗し、リーダー格の少年は片足を失います。
それでもくじけず、彼が畑をたがやしているところで終わるのがそのエピソードの結末です。

「蝿の王」ってのもあるね。海外文学です。内容は調べて。
その逆ベクトルが、ハインラインの「ルナ・ゲートの彼方」というSFです。「蝿の王」が、「ガキ同士集まったってぜったい失敗するよ」という前提に描かれているのに対し、「ルナ・ゲート」では子供たちが親なしでコミューンをつくることに成功します。
しかし、それは「ままごと」として最終的に大人に叩き潰されるんですね。

まあ、私が知っているのは60年代あたりからのフィクションしかないわけですが、その頃には反体制的な擬似家族が理想とされる場合が多く、その理想ゆえに、あるいは欲望ゆえに失敗するという話が、アメリカン・ニューシネマが流行って廃れた70年代までにはけっこう多いです。

むろん、「失敗するからやるな」とは言いませんし、理想をかかげて集まり、なおかつ帰れる場所がある場合と、必要にせまられて集まり、なおかつ帰れる場所がない場合とでは擬似家族のあり方も変わってくるでしょう。

ただし、地域コミュニティが崩壊しかかっている現状で、伝統的共同体に拠らない「擬似家族」は、少なくとも生活圏内において、「崩壊したコミュニティを復活させる」という問題意識のうえで成功した例はあまりないと思うし、あっても「伝統的共同体に変わる新しいコミュニティ」としての展望があるわけでも、たぶんないと思います。
(左翼的なコミューンや右翼的な団体があることは、私も知っていますが。)

今のところ、「擬似家族」はその必要性は感じられても「雲をつかむような話」だと言えるでしょうね。

・その2
もうひとつは、その関連で「現代における大人とは何か」という問題です。
旧来の、星一徹みたいな父親像ではない「大人」として、「シビアな現状を生きるスキルを身に付けた存在」というふうに言われる場合がままありますが、
このままでは足りない、と言わざるを得ないですね。

まあ、そういう存在が後身を導くことが可能だとしても、それを「大人」と呼ぶことには強い抵抗を覚えます。

というのは、「プラグマティックな技術だけではなく、何か超越的なものを背後にしている」存在でないと、大人だと言い切れないのではないかと個人的には思うからです。

たとえば、バンジージャンプで飛び降りたら大人と認める、という種族があったとして、

もちろんそれは「それだけの度胸と体力がついた」という実際的な「審査」の側面があったとしても、
やはりバンジージャンプは儀式なわけです。儀式というのは「超越的」でなおかつ「虚」なものが核にあります。

現代で、伝統的な慣習や儀礼にまったく拠らずに、単に「生き残ってきた者が大人」だと認定してしまうと、それは単に技術や家庭科の教師と同じであって、それ以上のものではありません。

ここで「超越的な何か」が果たして必要なのか、というつまんない議論になると思いますが、

私はぜったいに必要だと思っています。

だいたい、人間の歴史というのは、いろいろと懐疑的にやってきたけれども、最終的に「神」に代わる超越的な何かを、だましだまし担保しながらやってきたという印象があります。
完全にそれを無くすことは、たぶんできないですね。

それを「無くせる」と断言してしまうのがポストモダン思想だと思うんですが、どうもどんな本を読んでもダマされているように感じてしまいます。

ま、完全に「動物化」している人か、あるいは旧世代に怨みでもある人なら何も感じないのかもしれませんが、「単に生き残るだけ」なら、それこそ実際にゲームでもやっていた方がよくて、物語を享受する意味が、私はないと思います。

・その3
話が「大人」の問題からちょっとそれたので別項立てましょう。
「神」とかいうと面倒なので、伝統、未来、オカルト、擬似科学、社会主義、恋愛至上主義、なんでもいいから「何か超越的なものに依拠したいと思う信条」を「X(エックス)」としますと、

その「X(エックス)」のところにいろんな神以外のものを代入してなんだーかんだー言うのがインテリでしょ。
それは何を代入してもいいと思うんだけど、「X(エックス)は無い」って言いきってしまうのがポストモダンとするなら、それはないと思うんですわ。

直観的に。

あるいは別の言い方をすれば、「何も考えなくても生きていける人」というのはいつの時代にも一定量、いることはいますよ。
で、ポストモダン的思考というのは、その「何も考えてない人」にどこまでもよりそって頭のいい人が合わせてあげてるみたいな、なんかそういうふうにしか思えないんですよね。今は。

そもそもが、たぶん日本の戦後社会は基本的に大衆社会なので、思想とか哲学っていうのは「頭のいい人」が、「別に何の問題意識もない人」にどこまでよりそうか、っていうのが大きな問題としてあるんです。

その理由は、進歩的知識人が戦前のインテリのみで終始した共産主義運動の反省から、大衆の心情とか何とかを自分の革命理論に組み入れなければならないと思っていたから、というのがひとつ。
保守反動的な考えとしても、「熊つぁん八つぁん」みたいな感覚を取り入れてより伝統的共同体幻想を強化していく、という意味があった。

で、その根底には「より多くの、最大公約数的な人々が幸福になるために、思想や哲学はある」という大前提がある、はずです。

でも、それを真摯につきつめていったら、けっきょく最終的には「空っぽ」にならざるを得ませんよ。

だって、敵(?)である一般大衆は、何も考えてないんだもん。
何も考えてないものに、いくら意味を付けたってそりゃ限界はある。

ちなみに、「けっきょく意味なんかない」ものに依拠するのが、伝統主義ですね。
「伝統だから伝統です」っていうだけですから。

そこでちゃぶ台返しをやったのが「ポストモダン」って感じが、しなくもない。
要するに「神的なX(エックス)ってのは必要か?」という問題がずっとあって、そこにいろんなものを代入してきたんだけど、
そりゃ一定層は、何にもいらない、っていう人はいますよ。
だから、「もしかして、いらないんじゃない?」ってやったのが、たぶんポストモダン。

でも、それをやると、ある種の悪趣味な……虚無的なことにこそ快感を覚えるような人でないかぎり、まともで心弱く、「神的なX(エックス)的なもの」を必要としている人々がどんどん傷つくことになると思う。

・その4
そこで強調しておきたいのが、「因果者」という観点を見出した根本敬です。

根本敬は、欲望のままに動いて、ときには残酷なことをして、でも何の反省も無いような人を詳細に観察して記録し、著作を出しています。
ここで注意すべきは、「変わり者すぎて世間からはみ出した人」に混ざって、「何も考えていない人」が含まれているということなんですよ!!

具体的に言うと、根本敬の小学生時代の理科教師(学校で酒を飲んだりセクハラしたりは当たり前の中年男性教師)。
と、もう一人は「内田」(すごい年上の女のところに転がり込んでやりたい放題やった男)。

この二人は、「でも、やるんだよ」の言葉で有名になった「しおさいの里」の人とかと違って、本当に何も考えてない。素朴な意味での共感もしにくい。
で、何でこういう人を根本敬が取り上げたかというと、たぶん、

「何も考えてない人」という存在に、逆説的な奇跡を見出したわけでしょ。
これは予想なんだけど、「こんなふうに生きろ」って訴えてるわけじゃなくて、そこにはインテリである根本敬の存在が対峙されている。

「普通にものを考えて、ちょっとは本などを読む人」に、強烈なアンチテーゼを突きつけてくるわけですよね。理科教師と内田は。

「そうなるべき」っていうんじゃなくて、ちょっと形容しがたい「神的なX(エックス)的なもの」を、自分と「何も考えてない人」との関係性に見出している、という印象が、自分にはある。

「動物化」っていう思考はそれとは対極に位置するんですよ。
「何も考えてない」一般大衆をまず定義づけして、そしてそれを社会的に肯定してみせる。肯定というより、「そういうものなのだ」と分析して見せるから、「肯定」より冷徹です(そして、「そういうものなのだ」と断言してしまうからこそ、いろんな異論・反論が出てくるんですが)。

で、次の段階で一般大衆を、「もうそれ以上はどうしようもない存在」として扱う。
それで、後は「動物化された大衆」を扱える理想的な社会システムを考えていく。

だから、そこには「神的なX(エックス)的なもの」の入り込む余地はまったく、ぜんぜんないわけです。

それでもって、もっとぶっちゃければ「動物化した一般大衆を基調とした社会システムの構築」って、

そりゃ社会主義ですよね。新しい。

だって、「神はいない」っつって、伝統的共同体もない、っつって、後は社会システムの構築だけが人々を導ける方策だ、っつんだから。

私ねえ……どうもこの論法に、ある種の詐術があるような気がしてならないんだよね。
ちょっとウムを言わせない感じが。

・その5
別の言い方をすれば、「動物化」を前提とした社会論というのは、別に望まれてもいない一般大衆をどこかに導いてやらなければならない、しかも旧来のロマンチシズムを一切排除した方向で、ということで、

これはポストモダン論者(あるいは信者)以外には耐え難い無味乾燥さですよ。

しかも、旧来の社会主義的な(すでにとっくの昔に剥奪された)ロマンもない「社会システムのみが人を救うという意味での社会主義」を、一種のハードボイルド・タッチに遂行するという論理展開になって、いったい何が楽しくてやっているのかサッパリわからないということになってしまう。

このまま論理を推し進めていくと、少なくとも私にとってはとんでもなく不快な世界が到来するはず。

そもそもが、「大多数の人間の志向に合わせなければならない」っていう、ある意味無敵の論理がどこから出てきたか、ってところから問い直さなくてはならない。

まあ、具体的に言うと全共闘運動のどこかの地点から、なんだろうけどね。

しかしどう考えても、現状では滅びかかった伝統的共同体に依拠して青息吐息で生きていく、ってことの方が、「動物化した個人が擬似家族をつくって生きていく」っていうモデルを考えるよりも、まだエコでしょう。

何か、「壮大な擬似科学、しかも自分で自分の居場所をなくしてしまうような」の世界観を聞かされているような気がしてしょうがないんだよね。

広義のポストモダン論というのは。

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