« ・ 「アーカムブックス ベストコミック08」 | トップページ | 【イベント】・「さよなら江戸先生(仮)」 »

【雑記】・「ひとりごとターイム」

ネットウロウロしてみてつらつらと。
自分語りなので、読まないでいいです。

・その1
自分が、社会評論的だとか思想だとかの本を積極的に読まなくなったのはハッキリと、95年頃から。
なんでかというと、ある本に、「知のオタク」を徹底批判するという主旨でいろいろ書かれており、

「中途半端で気持ち悪くて頭の悪いヤツはオレの本読まなくていいよ!! さあ、行った行った!!」
ということが書いてあったからである。

思想系の本というのは、こういうことを何度か定期的に言っていかなければならないらしいというのは「批評家」の事情で私の知ったことじゃない(ブログを拝見すると東浩紀も「困ったファン」に悩まされているようで、何度かそういう迷惑なファンへの警告めいたことを書いているね)。

「じゃあ、読まねえよ!」という、心の中での売り言葉に買い言葉、であった。

「ゴーマニズム宣言」の面白さは、95年よりもうちょっと後まで続く。しかし、「新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論」が98年の上梓で、自分はコレで決定的に見切った。

あれ、前に書いたっけ? まあ自分語りだから何度でも書くが、「ゴーマニズム宣言」の面白さは「物語の『語り』のうまさ」と「批評家の言うことを批評家でない者が自分の頭で考え、咀嚼して語る面白さ」との結合だった。
ところが、薬害エイズ問題について描いた後、小林よしのりは急速に「思想」とか「作品を覆うテーマ」といった大文字の言葉を模索し始める。「戦争論」の第1弾はその端緒でもあり、また「語りのウマさ」にあまりにも寄りかかり過ぎた作品でもあった。

そこで、醒めた。

そしてまた「ゴーマニズム宣言」も、「薬害エイズ運動から日常に帰らない若者たち」や、それに引き続き、けっきょくのところ「自分の言うことを理解しない読者たち」を切り捨てるような言動が見られた。
前者に関しては正統な批判だと思うが、後者に関しては完全に「ウチの店が気に食わないなら、ヨソへ行け」というような物言いである。

・その2
もちろん、傲慢なクリエーターというのはどのジャンルにも存在するし、「私のつくるものが気に食わないなら、よそへ行ってください」という態度の人もたくさん存在する。あるいはクリエーターが客を選ばざるを得ない局面も、確かに存在するだろう。

しかし、こと「批評」に関して言えば、どうせ出版物としては平均で1万部(もっと少ないか?)、すなわち1万人支持者がいるかいないかだろうし、実際「どの1万人を選ぶか」が批評家にとっての切実な問題であるにしろ、逆に、読者側にしてみれば読書体験としては「実」の部分が非常に少ないということも言えるのである。

少なくとも、その批評がある程度の「論理性」を主眼にするならば。

それ以外の、アイドル的に「批評家のだれそれってムキになるところがかわいい」とか「だれそれは恐くて頑固でクレーマー体質なところがステキ」だとか、あるいは「文体がすばらしい」だとか言ったところに魅力を感じるのはむしろマニア、物好きの観点だ。

一般読者というのは少ない時間を使って、物事の理屈のあり方を知りたいから、貴重な時間を使って本を読む。
その際、「自分が参加者だ」と思えば読むし、「自分に関係ない」と思えば読まない。
本に金は払わない。簡単なことである。

そしてまた、それが思想系の批評(変な言い方だが)のジレンマでもある。ともすれば、読者へのおべんちゃらというかひたすら自己肯定をうながすしろものに成り下がる可能性があるからだ。

と、ここまでは普通の話。

しかし、読者に対して「おまえらはアホだ、ゴミだ、ミジンコだ、だけれどおれのやり方で鍛えれば一人前のオトコ(あるいはオンナ、あるいは社会人、あるいは人間)にしてやる、それでもついて来れるなら校庭百週!!」というあり方だって、気持ち悪いと思うよ、私は。

ちょうど、90年代初頭までがなんかそんな雰囲気だったんだよね。若手の論壇が。神妙な顔をして自己批判をするというのが、流行っていたように思う。
その流れを知ってか知らずか、初期のゴーマニズム宣言は、だから「あえて自分自身だけは批判の対象にしない」という、ドッキドキの大胆発言をする小林よしりんがファニーだったわけで、その「ゴーマニズム」が定番化してからは、自分にとっては面白くなくなってしまった。

また話がそれたが、とにかく90年代初頭の、ちょっと頭のいい人の自己批判があって。
それってさあ、なんか大学のサークルの合宿とかにOBがおしかけてきて、それでOB同士で深刻にお互いの自己批判をめぐる議論が始まっちゃって、それを神妙に聞いていたら急に在校生に向かって「おれたちが自己批判してるんだから、おまえらも考えろよ! な!」っつって焼酎をグビリとあおるみたいな。

それはおそらく、商売として成立するギリギリの線で、けっきょく90年代半ばには「自己肯定」の方向に、まあ完全に「批評」とは言いがたいかもしれないけどとにかく「言論」のレベルでは針がふれることになる。

でも、それは当然の流れだったよ。

・その3
頼まれもしないのに、反省なんてしねーもん。しかも金まで払ってさあ。
……ということだけじゃない。自分が思ったのは、「もしかして、自己批判をしておまえらもしろ、と言っている連中は、自分だけがその世界で楽しくおいしい思いをして、先生先生と呼ばれて、それを神妙に聞いているおれらって、金まで払ってバカバカ言われて、その状況にいること自体がバカなんじゃないか?」ということ。

「女と子供は説教されたがる」というのは、山田風太郎の「八犬伝」に出てくる馬琴の言葉だが、ここで言う「子供」は「大きなお友達」と言ったっていい。
説教はある程度商売になるんだよ。

で、現在。具体的に言っちゃえば「オタク論壇」の形成以降、自己肯定的な言説が実にたやすく出回るようになったのは事実だ。
そして自己肯定ばかりでよいのかという批判も当然、成り立つのだが、私にとっては「自己肯定」も「自己批判」も、だれかがショーバイにしている、という点では同じものにすぎない。

そりゃだれでもが、「おれの言っていることこそがいちばん正しい」とは言うさ。「あっちがいいですよ、ウチよりあっちにお行きなさい」とは、絶対に言わない。
「私の言うことも、いろんなひとつの意見です」とも言わないだろう。

だから、まあ95年から批評シーンでは10年、自己肯定の流れが続いたとして、次の段階で「では自己批判です。おまえらダメだ。おれが鍛えなおしてやる」みたいなことを言われてもねえ、ってのが、自分にはあるね。
ということは、けっきょく自分には社会評論的なものに対する、最終的な愛情が欠けているのかもしれないな。

だって、ロングスカートの流行の次にミニスカートの流行が来て、その次の流行がまたロングスカートだからといって、「前と同じだ!」って言うやつ、いないじゃん。言うだけ野暮で。

でも、私はそう思った。やっぱり、今の批評の流れってのは私から見てどう考えても「ロングスカートの次のミニスカートの次の、ロングスカート」だ。

批評家というのは、いまだに「論理がなっていれば、後は偏屈だろうが意地悪だろうが認められる」って思っているところがあるみたいだけど、むしろ批評家こそ、「本当はいい人」とか「人と別れるときに姿が見えなくなるまで手を振ってくれる」とか(笑)、そういうのが大事になってくるんじゃないかと思う。

ちょっとふざけた言い方をしたが、けっきょく批評というのは論理性プラスアルファで「文学性」というか、お笑い芸人で言うところの「ニン」というか、そういうのがものすごく大事になってくるはず。だって、東浩紀だってファニーなところがあるじゃない。

・その4
何度か書いてるけど、本当に批評家の多くの人は「インテリが傲慢にふるまったらみんなが喜んでくれる」みたいに、若い人でも頑なに思ってるよね。私より若い人でもそう思ってる。

まあ内容がなくて太鼓持ちみたいな人は確かに残っていかないだろうけど、かといって「傲慢なところがファニー」ってどっかで読者が思ってくれるだろうとしたら、それは、私個人はとんでもない話だと思います。

っていうか、そういう態度をいつまでも取り続けていると、自分たちが「おまえらあっち行け」って言ってるような読者だけが相変わらず残って、伝わる人に伝わらないと思う。

・その5
まあネチネチ書いたけど、私は常に現代性と照らし合わせて、正義や倫理を考えるというタイプの批評は絶対になくなってはならないとも思ってます。

もう一度書いておくと、

現代性と照らし合わせて、正義や倫理を考えるというタイプの批評は、絶対になくなってはならない。

でも、そういうこと書いている人のブログはたいてい傲慢で、自分ほど偉い人間はいないかのような書き方をする。
要は「文体」が古臭いんですよ。広い意味での文体が。

受験現代文で言うところの「論説文」文体で書いて、文学(物語)に負けるようなら批評はいらないよね。でも、かといってあたかも文学と批評が同じ土俵で戦っているかのような物言いは、批評側からも、文学(物語)側からも間違っている。

ここも強調しておくけど、

批評も文学(物語)も、近接はするが違った役割がある。

ま、今日のところはこんな感じ。

|

« ・ 「アーカムブックス ベストコミック08」 | トップページ | 【イベント】・「さよなら江戸先生(仮)」 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

社会全般」カテゴリの記事

評論とは」カテゴリの記事