【雑記】・「無題……いや、私が甘かったんだろうね」
80年代中盤、それまでの「怪談」というイメージとは違うスプラッタ映画、スラッシャー映画(当時はどちらも普通は「スプラッタ映画」とされていた)がミソもクソも大量にビデオ化され、当時大量に増えつつあったレンタルビデオ屋の店頭に並んだ。
自分は基本的にホラーが苦手なので、それらの出来事に熱狂したことはなかったが、この段階で確実に、サブカルシーンでの大きな変革が起こっている。
そして、そのムーヴメントのさなか、1988~89年にかけて連続幼女誘拐殺人事件が起こる。この騒ぎの中、あまり関係ないと思われていた景山民夫さえがホラー・スプラッタ映画規制に反対する声明的エッセイを発表していた。
まあ、連続幼女誘拐事件について語ってしまうとややこしくなるが、少なくとも90年代の終わりくらいまでは、そういうものを愛でる人たちというのは一枚岩だと、私は思い込んでいたわけだ。
ところが、現実はそうじゃなかったのだろう。なんでこんな文章を書いているかというと、たまたま目にしたホラー・スプラッタに詳しい人のブログで、同じく某ホラーやスプラッタに詳しい人たちの某の某について、一行か二行、皮肉交じりの感想が書いてあったから。
わざわざ足を運んだというが、「じゃ行くなよ」と思ってしまった。
ブログの書き手の年齢がわからないが、少なくとも最初に、80年代スプラッタ映画についての文章を書いた人たちよりは、若干年下なんじゃないかと思う。
これが「これこれこういう主旨で、こういう内容だから気に食わない。自分はその主旨に同意できない。それはこうだからである」ということが書かれていれば、私は何も思わない。それはその人の「意見」だから。
しかし、皮肉交じりに一行二行では、落胆せざるを得ない。
なぜなら、そのブログは「皮肉交じりに一行二行だけ書いて通じる」相手にだけ向けられたものであり、なおかつ、専門誌ではなく、同人誌やミニコミでもなく、まったく関係のない人間にも目に触れる機会があるメディアだということへの自覚がない、ということだからだ。
まあもうブログはそういう使い方で仕方がないところもあるっちゃああるんだが、それにしたってもうちょっと自覚が持てないものかと思う。
私は、もう、一行か二行で物事の判断を済ませようとするブログに関しては、「この人は、『おれらとやつら』という一種の党派性だけで動いているのだな」と、判断せざるを得ないんですよ。
それは「仁義なき戦い」や不良同士の抗争と同じで、自分のスタンスの「正しさ」はまったく不問にされてしまうということ。
よしんば、先人が似たような態度を取ってきたからオレたちも、ということであれば、それはやめた方がいい。
そんなことをやっていては、どんどん泥沼化しますよ。
ただひたすら、文脈のわからない皮肉や捨てゼリフだけが、某巨大掲示板ではなく、多少なりともまともなブログに積み重なっていくという不毛な状況になる。
たとえば、確かに「議論」というものが不毛なのかも、と思わせる時代はネット上にあった。わからず屋にどんなに理を説いても絶対に通じないというようなね。
でも、今はそれが明らかになっているのだから、別の方法があるはず。
まあ、こうなってしまったのは先人の、あるいは先人の先人の責任もあるんだろうけれども……オトナなら、そういった文脈すらもふまえた文章が書けるはずだよね。
「チャイルディッシュであること」と、「大人の頑固さ」が最近同じ言い訳で使われているが、根っこは同じ。スタンスや言い方が違うだけなんだ。
そういえば「大人の隠れ家」と子供の「ひみつ基地」って似てるよね。
そこからどうやってか、突破していかないといかん。他山の石としたい。
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