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【お笑い】・「一億総白痴化……そう、あなたも私もそれらの一員!?」

収入減を嘆く前に少しは見るに堪える番組を
ゲンダイネットの記事だが、ゲンダイネットって元記事が探しにくいので、ライブドアニュースから。
とにかくこの記事を読んだときには憤りを通り越して大爆笑してしまった。まあゲンダイネットの記事にいちいち何か言うことそのものがヤボなのかもしれないが、書いておく。

例によって「正月にくだらないお笑い番組がやっていた」という記事である。
「テレビのお笑い番組批判」には、大きく分けて二種類ある。

・その1
ひとつは、評論家やすでにリタイヤした「良識ある番組をつくってきた」テレビマンに、テレビの現状を嘆いてもらおうというもの。
もうひとつは、テレビ出現以前のお笑い、すなわち寄席芸などに強いシンパシーを持っていて、テレビのお笑いを批判するというものだ。

後者は、まだ同じ「お笑い」のカテゴリでの議論が可能になるから有効性がないではない。
が、リンク先の記事は前者の典型。この記事で引き合いにだされている吉田直哉という人は、ググったら「NHK特集」や「太閤記」などをつくった人。つまり「良識派」の典型みたいな人で、お笑い畑を歩いてきた人でもなんでもない。
そりゃ、日のあたる良識の道を歩いてきた人がお笑い番組の批評をしたら、全否定になるに決まっているのである。

暗澹たる気持ちになるのはいまだに「一億総白痴化」という言葉が出てくること。「テレビのくだらなさ」を表す言葉として重宝がられてきた名言だが、これもググってみると、1957年に言われたものだという。
ウィキペディアに、「いったいどんな番組を観て言われた言葉なのか」について書いてあった。

出演者が早慶戦で慶應側の応援席に入って早稲田の応援旗を振り、大変な騒ぎになって摘み出される所を見て「アホか!」と呟いたという(大宅の三女でジャーナリストの映子の談話より)。

「慶応側の応援席で早稲田の旗をふる」……ハハハ、「電波少年」の元祖みたいな番組だ!!
つまり、テレビをめぐる「良識VSバラエティ」の対立図式というのはすでに50年代に出てきているということである。さらに、この時期にそんな番組がすでにやっていたということは、そういう「くだらないこと」が、テレビ以外にも日本人の中で行われてきた可能性は非常に高い。

大宅壮一のこの言葉は、「テレビ」という当時の新興メディアを批判したとして歴史に残っているが、もしかしたら「日本人特有のバカげた部分」を、歴史性から切り離してスポイルしてしまった可能性すらある!

・その2
話を戻そう。
このように「良識ある先達」によって、「現在のバラエティのつくり手」が批判されるのは時系列から言ってもおかしいのだ。良識ある過去の黄金時代」と、「すべてが崩壊したモラルハザードの現在」があるわけではなく(もちろん、リンク先の記事は無意識的にその誤認をねらっているわけだが)、
常に「良識あるもの」と「くだらないもの」が対立してきたと言っていいのだ。

くだらないテレビバラエティを「良識」の観点から批判したいなら、「良識ある先達が現役を叱る」といったくだらないトリックは用いず、「良識ある先達と、くだらない番組を担ってきた先達」とを対談でもさせるべきだ。

NHK特集をつくってきた「先達」と、「コント55号の野球拳」や「ドッキリカメラ」や「底抜け脱線ゲーム」や「やじうま寄席」や「大正テレビ寄席」をつくってきた先達を、ガチで対談させればいい。

そんな番組ができるなら、雑誌があるのなら私は観る、買う!!

嗚呼、真のテレビバラエティ評への道のりは遠い。

・その3
最後に、「一億総白痴化」という「感覚」にもう一度立ち止まってみる。
1957年、「一億総白痴化」という言葉が出てくるが、それからの15年くらいは学生運動がワーワーしたりと「大衆参加」の時代になる。
80年代には、プロ/アマボーダーレスという現在のオタク状況に続くことになりながらも、一方で70年代あたりまでの「大衆参加」に対する反省が知識人の中から出てくる。
「大衆蔑視」という言葉も聞かれるようになり、その流れで「一億総白痴化」という言葉は延命する。

80年代の知識人は、この「知識人/大衆」という図式にまだこだわり、「おめーら(大衆)、こっちくんなよ」的な意味合いでいろいろあがいていたが、
もはや、まったくテレビやネットなどのメディアに触れない生活など一般的には考えられない。

呉智英のように「年に数回しかテレビを観ない」という人もいて、それも見識のひとつだとは思うが、やはりそこには「電車があるのにわざわざひと駅歩いていく」的なポーズ、パフォーマンス的な意味あいが結果的につきまとう。
メディアや技術の進歩というのは、一度出現してしまうとそれを拒否しても、それ自体が「ええかっこしい」に映ってしまうということがある。

そういう意味で言えば、「一億総白痴化装置=テレビ」が出現してしまった以上、それをどんなに拒否しても、あるいは拒否しているというスタンスそのものが「一億総白痴化現象」の一部にすぎないと言うことすら、できる。
それほどまでに、「テレビを観ない」というスタンスは、本人の満足度はともかく大勢には影響しない。
なにしろ、「テレビを観ない」と言っている人もテレビに出演していたりするからね。
それこそが、ここ40年くらいの状況ではなかったか。

「おまえを蝋人形にしてやろうか!」(古い?)ではなく、「おまえをイチオクソウハクチカにしてやろうか!」である。
まあせいぜい、現在60歳代あたりまでなら、まだ知識人でも「テレビなんて関係ない」とすっとぼけることが可能だろうが、それ以下の世代となると、テレビやネットに接していないこと自体が、うさんくさいというか一般大衆にアピールする場合の説得力に欠ける気がするのである。

それこそ、おしゃれにおけるこだわりの「○○しか使わない」程度の、「ポーズ」に堕してしまっているのが「テレビを観ない」ということの影響力の現実だと思う。
(「テレビはまったく見ないがネットはする」という新しい世代もいるだろうが、それはまた別の話。)

だれもが知らず知らずのうちに取り込まれているネットワークの存在を無視して、大状況は語れないと思うんです。
知識人のみなさん。

まあ、テレビバラエティの評価からだいぶ違う話になったが、でもやっぱりそういうことなのである。

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