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【雑記】・「相容れない複雑さ~擬似科学批判、懐疑主義の線引き」

ここと、

ここの続き。

いや、「つまらないことに耐えられるようになりなさい」というのは正論なんだけど、別に私がわざわざ書かなくてもいいことのように思うんですよね。
(「私」っていうのは「この偉い私が」っていうニュアンスじゃなくて、「私という平凡な人間が、わざわざ紋切り型の文章を、ウェブの海の中に投じる必要もなかろう」という意味です。)

そこを突破したいんですよ!!!!!

でも、奇をてらったムチャクチャじゃなくて、
ちゃんとものを考えている人に手がかりを与えたいんです。
もうちょっと、考えてみましょうか。

・その1
「つまらないことに耐えろ」という意味の文章で私が印象に残っているのは、「終わりなき日常を生きろ」の宮台真司ではなく、浅羽通明がどこかに書いていた文章の一節だ。

浅羽通明は、半村良の短編小説を例に出し、その中でサラリーマンの上司と部下が新幹線か何かに乗り(この辺、記憶曖昧)、車窓から見える空飛ぶ円盤、すなわちUFOに騒ぐ部下をたしなめこれからの仕事にしか興味がない上司を讃え、「地に足のついた生活のリアリズム」を説いていた。

この文章には、彼の師匠筋である呉智英の「コーヒーを大人のカッコいい飲み物だと言う人がいるが、カッコいいと思って飲むのもコーヒーだし、疲れた営業マンが喫茶店に立ち寄って飲むのもコーヒー」だとした一文も思い浮かぶ。

呉智英の弟子筋(正確には「弟子」ってわけでもないんだろうけど)の浅羽は当然、超常現象やオカルト否定派だから、「大人の日常」の例として、そしてさらに「なぜ超常現象否定派なのか」ということをも含めての半村良の短編小説の引用」なのだろうけれども、

実は彼らがバッサリ切り落とした膨大なオカルト、超常現象、擬似科学のたぐいの知識大系の検討は、

そっくりそのまま、その知識大系が裏返って「トンデモ本の世界」という書籍につながっている。

90年代以降、「トンデモ」という言葉が人口に膾炙するようになるのは、ご存知のとおりだ。
ここでほとんど初めて、「なんだかわからないうさんくさいもの」であった書籍群が「トンデモ本」としてカテゴライズされ、ラベリングされた。

実は(「実は」なんて思っているのは私だけかもしれないが)、呉~浅羽ラインの主張と「トンデモ本の世界」とでは、似ているようで理屈の上では相容れない一線があるのである。
どちらがオトナのスタンスか、あるいは両方ともかはこのブログの読者の判断にゆだねる。が、「宝島」という出版社を通して両者が非常に近い場にいながら、必ずしもまったく同じスタンスではないというのは、考えておくべき問題かもしれない。

なお、呉智英は「トンデモ本の世界」に関して「サブカルチャー」として評価しているという話を、どこかで聞いた。

・その2
呉智英は「封建主義者」の立場だから当然「怪力乱神を語らず」で、擬似科学批判に対する理論武装を最小限にとどめ、後は擬似科学そのものに取り合わないでおこうというスタンスを取る(彼の著作には、いわゆる「ビリーバー」に対抗するための必要最小限の書物が示されているだけである)。

これは、彼が広めたい自分の思想に対して、そのライバルたりえる新宗教やオカルト的な考え方などに対する「主要打撃論」的な立場からくるものだとも言える。

さて、もう少し年齢の若い浅羽の場合、さらにその主張は具体的になる。
これは想像だが、要するに、自分の居場所がなく、常に「サブカルチャー」の現場にいたがるような浮ついた自分の読者に向かって、「まず地に足をつけよ。自分の居場所をつくれ。そして食っていける下地をつくれ」という意味で投げかけられた言葉だと思う。

で、やっと本題。
くだんの「半村良の短編」を読んでいないので、その小説に関しての言及は避ける。あくまでも「引用されたその文章」を対象とするが、

「じゃあ空飛ぶ円盤って、そんなにつまらないものですか?」

という問いが、実は成り立ってしまうのであった。

もうひとつ、呉智英(いちおう断っておくが、私はかなりこの人を尊敬している)は「空飛ぶ円盤はナイ」という文章も書いている。
それは、科学的思考に限界があるのではないか、という問い直しがあった70年代頃の風潮に対するアンチテーゼでもあるが、「科学的思考」の立場と見識を守り抜こうとする一文であった(もちろん、繰り返すが「主要打撃論」的な意味合いもあっただろう)。

そして、別の一文で、彼は「スプーンが曲がっただの曲がらないだの騒ぐのなら、なぜ柄杓の民俗学的役割についての検討に考えが至らないのか」(大意)というようなことを言う。

最初に読んだときは偉く感心したものだが、この一文には実はトリックがあって、
「スプーン曲げ」や「UFO目撃」などの「いま、ここ」にある現象を、民俗学的、あるいは文化人類学的に考察するという視点がスッポリ抜けているのである。

なぜ我々は「スプーン曲げ」という今、ここで起こった現象を通して、明治時代、江戸時代、あるいはもっと前にさかのぼらなければならないのか、というと、それは「古典教養の重要性」とか、そこから「柳田民俗学はおさえておくべき」ということくらいしか、理由が見当たらないのだ。

・その3
もっとも、呉智英夫子は、わざと、知っていて知らないフリをしていた可能性が大いにある。
なぜなら、自分の「思想」を広めるのがおそらく、彼が自認している仕事だからだ。

話がどんどんそれるが、一方、浅羽の方だが、
同世代の大塚英志が「少女民俗学」という、まさに「今、起こっている現象」を民俗学的に読み解くという本を出す。
これはちょっと勇み足だったかもしれない。なぜなら、何十年、何百年も前のことと「現在」が結びつくという根拠がこの書籍においては希薄だからだ。
さらに、「女子高生」をちょっと神秘化しすぎていた気もする(このあたりは宮台にも通じる)。
その辺を、浅羽通明は批判していた。
懐かしい話だけど。

だけれども、文学的レベルでは、少なくとも「ニセ学生マニュアル」の最後のやつが出たあたりまでは、浅羽通明は「空飛ぶ円盤やUFOを否定してまでも得られる元気」を、読者に提示することはできなかったのではないかと思う。

後に「ゴー宣」に今以上の勢いがあった頃、彼は小林よしのりと対談本を出すが、小林よしのりの当時の主張に共鳴したこともあろうが、「ゴーマニズム宣言」というマンガにイベント性を感じたというところもあるだろう。呉~浅羽ラインの思想は、イベント性を出して読者を高揚させるのがなかなかむずかしいからだ。

そして、そっち(オカルト否定、懐疑全般の面白さ)は、「トンデモ本の世界シリーズ」や、稲生平太郎の著作「何かが空を飛んでいる」が受け継ぐのだ。

空飛ぶ円盤も超能力も好き、だけど本当にあるとは思えない、でも好き……そんな感情をあらわすことができなければ、世の中寂しすぎるではないか。
それを表明する人たちが、それぞれ個々にスタンスが違っているとはいえ、90年代に注目されるようになる。

・その4
私の思考過程を簡単に説明するために実在の思想家の名前を出さざるを得なかったが、要は「どの程度世の中を乱さずに元気を出すか」ということに、物事は尽きるのである。

それができるかどうか。生きざまでも、行動でも、文章でもいい。
ただ「世の中なんて、つまらないよ」ということはだれにでも言える。

そこをどう「面白い」ことの方に持っていくか。
それが大人の責任だというふうに思うのであった。

なお、批判的なことを書いていると思われた人もいるかもしれないが、上記に名前を出した人たちに対して、私は尊敬しているからこそその本の内容をいつまでも覚えているのであった。
実は今でもものを考えるときにふと思い出すのが、今回名前を出した人々や団体である。

この手の本はすぐ絶版になって若い人は読まないので、記録としても残しておく。

はあ、やっと結論出たかな。

と、言いつつまた補足!!長いよ。

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