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【評論とは】・「けなし記事分析」

Perfume対談~雑誌評論分析(All Aboutテクノポップ)

Perfumeどうのこうのじゃなくて、一般論としての「けなし記事分析」としてよくまとまっていると思うのでリンクした。

オジサン向け週刊誌には、埋め草的などーでもいい「けなし記事」が載ることがままある。
たいていゴールデンウィーク前とか年末年始などの忙しい時期の、「短い記事をダダダーッとたくさん載せる」形式に多い。

もうひとつのパターンとして、リンク先でも指摘されているが「女同士のバトル」を現出させて、それをオジサンたちが意地悪く見る、という場合もある。
女性週刊誌で「男同士のバトル」を観て喜ぶ習慣があるかどうかは、私にはわからんが、とにかく趣味の悪い(そして、だれも得をしない、少なくとも読者は)記事パターンだと言えるだろう。

・その1
リンク先の対談を読んで思ったこと。
まず「計算ずくだから悪いのか」という問題に関しては、リンク先に大半は同意するが、やはり「計算が透けて見える」とシラケるのも事実(私、元記事を読んではいないのだが)。

ただし、現在のアイドルシーンは客の視点は何周も回っていて、無邪気に「Perfumeカワイイ!!」と喜ぶ者から「あえて感」を感じて楽しむ者までさまざまだろう。
そもそも、モーニング娘。が「メタ・メタ・アイドル」と呼ばれ、Perfumeはさらにその先にある。
少なくとも、おニャン子~モーニング娘。に関してへりくつを書きなぐってからPerfumeに行った人たちは、その「何周目か回った」ファン。

素直に「カワイイ!!」って言っている人たちに関しては、「アイドルとはそういうもの」だから、本来のアイドルを本来のように楽しんでいる、いちばん幸福なお客さんである。
それでいいのだ。

アイドルを「計算ずくだから気に食わない」という批判は、私にはひとまず、正統であるように思える。ただし、それは「アイドルとは、異性が直球のターゲット」であるということを前提にしなければならない。
つまり、「計算が透けて見えるかどうか」は、ターゲットである異性のお客さんが判断することであり、「同性に言わせりゃすけて見えるのヨ」って言われてもねえ……って感じである。
もちろん、逆にジャニーズのタレントなどに対して、男が「こいつら計算してるよな」と言っても、まあ、ほとんど無意味に近いのだ。

・その2
それともうひとつは、「計算」ということの複雑さをわかっていなければ、みだりにこの言葉は口にできないだろう、ということだ。
前も書いたか言ったかしたが、若槻千夏が「ごきげんよう」で、「道を歩いていたら、『若槻千夏って、本当はバカじゃないと思う!』と話している人がいた」ということを話題にしていた。

これは非常に面白いメタな構造になっている。つまり、若槻千夏が本当に天然ボケなのか、実は計算しているのかがテレビ視聴者に問われているのだ、と、若槻自身がテレビで言っているということなのだ。

ここで若槻千夏は、単に「若槻千夏はバカだ」と噂されているなら普通の話だが、「本当はバカじゃないんじゃないか?」と噂されていればトークのネタになる、という事実を披露している、だけにとどまっている。

そここそが重要で、若槻自身が「見抜かれてましたあ~」とか言ったら台無しなわけである(「見抜かれてた」と主張すること自体がボケとなる、というケースもあるが……この辺は無間地獄なのです(笑))。

「ヘキサゴン」系のおバカタレントたちは、すべて「紳助」という、クレバーで包容力もあるビッグな芸能人から認知されているからこそ自由に「おバカ」としてふるまえる(若槻はその前からいるわけだが)。

なぜ「認知」が必要かというと、テレビ視聴者は常に天然ボケタレントを「計算じゃないのか……?」と疑っているからだ。

このようなことは、たとえば欽ちゃんのタレント育成メソッドが全盛だった70年代には存在しなかった視点である。「見栄晴」や「フツオ」や「気仙沼ちゃん」が、計算ずくでボケているとは当時、だれも疑ってはいなかったのだ。

ちなみに、その後、「欽ちゃんにはメソッドがある」ということを、欽ちゃんファミリーのタレントたちがどんどんばらし始める。その理由は欽ちゃんに対するリスペクトと、時流に乗ったのと両方だろうが、それが結果的に「欽ちゃん」を、「お年寄りだけが楽しめる存在」にしてしまったことも事実だ。
また、欽ちゃんから薫陶を受けているかどうかは知らないが、ほとんど70年代的な「ボケ加減」を貫きとおしているのがウド鈴木である。

話を戻す。とにかく、ライターだったら「計算か計算じゃないか」は、今やギリギリの、精密機械のような視点でないと安直には語れないところに来ていることは確かなのだ。

・その3
もうひとつ驚いたのは、アンチ記事を書いた人物の一人が「ポストナンシー関だ」と言われているということ。いまだにナンシー関を継ぐ者が求められているとは!!

同じことを何度でも書くが、本人すら、早すぎた晩年には時代の流れと格闘していたのだ。
読者か編集者か、だれが求めているのか知らないが、ポストナンシー関を求める心、それははっきりと古臭いということは、ここでも言っておきたい。

ナンシー関が提示したのは徹底した「論者の視点の問題」だった。「テレビを観ている自分は、出演しているタレントはいったいどこにいるのか」ということである。
もう、その問題提議は、80年代に済んでいる。

でなければ、堀井憲一郎が何かを数えまくったり、ライターが体当たり取材などする必要はないではないか。
それに、ナンシー関的、というかテレビブロス的な「テレビについて好き勝手なことを言う」快楽は、ネットでいくらでも発散できるのである。
だから、もうナンシー関のようなライターは、少なくとも私には必要ない。

「視点の面白いヒトに、芸能情報をいっちょ切ってもらいましょうか!」という時代は、もう終わりつつある、と思いたい。

リンク先の対談でわかるが、音楽評論シーンではすでに「北欧って言ってりゃいいのかよ」ということが、当たり前の批判として成り立つほどの水準には言っている。ロッキンオン信者もいるだろうが、アンチも存在しているわけで、そこはバランスが取れていると感じる。

ところが、テレビ評はいまだに、まったくその足元にもおよばないレベルだ。だっていまだにナンシー関が求められてるんだよ!? なんなんだ一体。
どうせみんな、エリカ様やDAIGOやオバマ大統領にやっかみがあって文句言いたいだけでしょ。それはもう、さんざんやったから。
まだ足りないヒトは、2ちゃんに行けばいいから。

かといって、私は「学術的な分析を」と言ってるわけでも、もちろんない(そういうのも必要かもしれんが)。

最近、キケンだと思い始めたのが、以前にホメ讃えた漫才の「手数論」で、
確かに面白い指摘だったのだが、漫才がこのまま、そういう、ちょっと理系寄りの分析方法でおさまってしまうようには、自分には思えないんだよね。

……というようなことを思った。良い対談だと思います。偉そうでスイマセンでした。

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