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【雑記】・「背後にある『思想』の読解に特化したらどうだろう。」

ノスタルジーに対する質的評価基準を持てないだろうか。(better)
自分は「ノスタルジー」に関しては当ブログでは、かなり意図的にやっている。「80年代」に関するエントリは、そもそも「80年代はわかりにくい」、「80年代は軽薄短小な時代」、「80年代という10年間」という固定観念や理解のされなさに対する自分の意見、と行ったところがある。

ぶっちゃければそんなにたいしていい時代でもなかったわけで、自分の青春時代だから、振り返ってより理解を深めようという気持ちもあるし。

さて、ノスタルジーの評価の問題だが、私は「ノスタルジーを意図した作品」がそのディティールにこだわっているからこそ、細部(どのようなアイテムが出てくるか、それが正確に描写されているかどうかなど)よりも、「作品全体が何を言いたいか」というテーマやその背後にある「思想」に目を向けた方が、その作品の質は読み解ける気がしている。

当たり前のことを、あるいは古臭いことを言っているかな。

まあ個人的な話になりますが、自分は最近「思想」回帰というか、ことさらにテーマについてこだわって観るようになっている。
「意図的にノスタルジーを増大させようとしている作品」は、必ず「なぜそうするのか」という理由があるわけで、その「理由」を正しく読み解ければ、おのずと作品評価もできる、と考えている。

ただ、批評の際に「相対化したものの方が好意的に受け取られる」という傾向があることには同意する。
なぜそういうことが起きるかというと、作品内での「相対化」自体が批評的行為なので、批評する側はことさら、それにシンパシーを感じてしまうからだ。それについてだけ反応するのなら、それは確かに機械と変わらない。

リンク先のエントリが想定している「ノスタルジーを追究した作品」は、たぶん私が考えているものと違っているだろうとは思うんだが、
それをふまえても、ここ20年くらいのスパンで観た場合、「ノスタルジー」にはある思想的な傾向がある気が、するんだよね。

「いつの時代を懐かしむか」で、相当変わってくると思う。

で、結論から言うと一種の「ひねくれ」でノスタルジーに耽溺している、かのように見せるというスタンスがあって、そこが気になっている(だんだん本題とズレてきているが、気になっているので書く)。

それは「その時代が100パーセント、いい時代じゃないことくらいわかっているが、現状がひどくて未来もない以上、自分がその時代にこだわりを持って悪いわけでもあるまい。」とでもいうようなスタンスのことで、

これは実はほとんど無敵に近いスタンスなのだ。
だって、本人が「完全に正義だとは思っていない」態度で、でも、なおかつ過去から現代を斬ることができるからね。

具体的に言うと山本夏彦とか、西部邁とかがそうだね。橋本治もちょっとそういうところがあるのかな。
あと、大学の先生で育ちがよくてお坊ちゃんで、なおかつひねくれている人がエッセイ書いたりするとそうなるね。

まあ西部邁や橋本治は、はっきり同時代の雰囲気と対立している風情があるからちょっと違うけど、そうじゃなくてもっと「ひねくれ」に特化した場合、「あの人はああいう態度だからとやかく言ってもしょうがない」ということになる場合が多い気がする。
要するに、激しい思想的対立を生まないんですよ。

たとえば、SFコメディみたいに忍者や侍やドラキュラが平凡な一家に同居していたとしても、その日常の摩擦というのはあくまで「コメディ」の範疇なわけでしょ。全面戦争にはならないから。

「この人はこういう考えなんだな、しょうがないなあ」で済むわけです。
でも「本当にそうかなあ」って言う。もし本当に、激しく現代と違う考えの持ち主がいたら、実は日常的にはともかく、思想的にはものすごい激しいズレを生んでいるのではないか、という気はする。

別の言い方をすれば、たじまようこやふくしまみずほは、みんなぶっ叩くわけでしょ。それは彼女たちが最初から思想的対立を想定して、いわば「仕掛けてきているから」なんだけども、そうでないものっていうのは見えにくい。

ノスタルジーが「めんどくさい」としたら、それは「未来か、過去か」っていう二項対立を、混ぜっ返す場合があるから、ということになるかもね。

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