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【雑記】・「自分の立ち位置を確認することと、どういう視点が有効かということ。」

ここ数日、いろいろとブログに書いたりボイスブログでしゃべったりしたが、けっきょく何が言いたいかというと、ものを書くときに、
「自分がどういう立場から発信したらいちばん有効か」
ということと、
「ものを観るときの視点の問題」
である。

たとえばハリウッド映画は、輸出も考慮に入っているとはいえ、最初の観客がアメリカ人であることを大前提につくられているだろう。
「アメリカ人がつくったものを、日本人が観る」という構図がある。

「リダクテッド 真実の価値」について書いたが、フェイクドキュメンタリーは「観客の視点」というものを露呈させる。

M-1グランプリについても、そう。
「審査員が審査する」という形式は、それについて書くときにも「観る側」に、「審査員目線」を強要される。
いや別に、観客目線でもいいんだけど、ちょっとまじめに考えようとすると審査員にシンクロしていかざるを得ないし、それはどう考えても、プロ、同業者にアドバンテージがあるわけである。

そこで、シロウトが語ることの意味は何か? を考えないと、負けてしまうというか、プロに取り込まれてしまうんだよね。

それと、「リリースされた『作品』は、送り手のものか、受け手のものか」っていうのも、常に私が考えていること。
「送り手と受け手との間に、『作品』というものが生成される」ということでひとまず回答は出ているんだが、

実は批評とか評論という分野は、この「作品はだれのものか」ということの、所有権の奪い合いが裏テーマなんだよね。

クリエイターが評するときにはクリエイターならではの、クリエイター寄りの批評をする場合が多いし、
プロデューサー、プロパー評論家、シロウト、他分野の人、男、女、そういう立ち位置、主義主張によって、批評の展開が変わってくるというわけである。

自分はと言えば、クリエイターでもなく、「評論家」でもない立場から何が言えるか、ということはひとまず考えるよね。
そうした立ち位置から発信しないといけないし、それに意味、意義がなければいけないと思っている。

技術論は大事なんだけど、そこにシロウトが拘泥すると、本物のプロに足元をすくわれることになるし、
かといって表層にツッコミを入れる、という形式は、ナンシー関が完成させ、終わらせたと私は思っている(独自の感受性を持っている場合はまた違ってくるのだが……一般論としては、そうだ。)

ただし、「他人がこう言ってるからおれはこう言おう」というのが見えすぎてしまってもかっこうが悪い。
それを感じたのは松本人志監督の映画「大日本人」や、一連のジブリ作品の感想をネットで読んだとき。
概して、メジャーでマニアックな掘り下げが可能な作者、作品というのはこの罠におちいりやすい。

ま、そんなことを思っています。

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