【雑記】・「オタク論は弱者擁護でなければ意味がない」
「やらせ!?」TBS『リンカーン』ヲタ芸大会に批判の声が殺到
私は、この番組のこの回をずっと観ていた。
個人的には「やらせ」かどうかに関しては、まったく興味がない。
そもそもが、シリーズの三作目か四作目であり、まったくのやらせかどうかはともかく「セミドキュメンタリー」というほどのものだろう。
それより、このコーナーのこの回は、「オタク内弱者と共生できるか」ということがテーマになっていたように思うし、それが重要だったと感じる。
なぜなら、すべてのオタク論は、「学校社会内弱者」のためのものでなければ、意味が無いからだ。
・その1
この回のストーリーを簡単に説明すると、フットボールアワー・後藤が、中野をテリトリーとする地下アイドルヲタのグループに入れてもらい、来るべき「ヲタ芸の大会」に向けてひたすらにヲタ芸を練習するというものである。
「やらせかどうか」が問題になっているのは、クライマックスの「大会」が番組お手盛りのものなのではないかということらしい。まあ、本当にそうかもしれない。しかし、私はこの番組を観ていて、最後に主役格のグループが優勝しなくてもじゅうぶん作品にはなりえたと思う。
(まあ、考え出すと「そもそもヲタ芸の大会なんてひんぱんにあるものなのか」とか「ヲタ芸は人と競うものなのか」という疑問が生じてしまうわけだが、そこは置いておく。)
物語(物語と言ってしまっていいだろう)は、中盤でフット・後藤が入れてもらったヲタ芸サークルの人間全員が、メンバーの一人が過労で倒れたことをきっかけに、学校でいじめられっ子だったとカミングアウトする。
こういうことを言っては申し訳ないが、本当に「こりゃ学校でいじめられるだろうな~」という感じの人ばかりなのである。もしかしたら、いろんなところからそういう人を番組のために集めてきたのかもしれないが、それもここでは置く。
みんな、カミングアウトしたせいか感極まって泣き出してしまう。この泣き方が、ものすごいリアル。大人の男の、大人の情けない男の泣き方なのだ。情けない大人の男は、みんなああいう泣き方をする(私もそうだ)。
次に、第二の事件が起こる。みんなで、メンバーの一人が持っているという海辺の掘っ立て小屋へ行き、合宿をしようと言うのだが、そこへ行った際、マネージャー(そのヲタ芸のサークルに、そういう役割の人がいるのです)が失踪してしまうのだ。
探し回るフット・後藤&メンバー。やっとそのマネージャーを見つけると、実は自分は性同一性障害だということを泣きながらカミングアウトする。
彼はアイドルには興味がなく、性同一性障害の自分を受け入れてくれるのはこのメンバーしかないから、ウソをついていた。
そのことを申し訳なく思って、耐え切れなくなった、というのである。
「メンバーが突然失踪して見つかる」なんて、やらせ疑惑を抱きだしたらキリがないが、重要なのは「疎外された人たちの中に、もっと大きな枠組で疎外されうる人がいた」ということだ。
けっきょく、メンバーは(後藤も含め)マネージャーを受け入れ、練習し、大会で優勝してこのコーナーは終わる。
・その2
まあ、実際オタク内にはいろんなタイプの「困った人」がいる。非常識だったり金の貸し借りに無頓着だったりというのは問題外だが、どうにもこうにも「つきあいにくい人」というのはどうしても存在する。
私も困ることがある。
が、理念上は、「オタクという生活スタイル、ものの考え方」は、学校社会からはじきだされてきた者のためになければならない、と自分は思っている。
そうでなければ何の意味もない。
そうでなければ、エリートのただの戯言である。
オタクというと知識があって、物事を整理して考えられて……というイメージが昔はまだしもあったが、紹介した番組に出てくる「ヲタ」の人たちは、たぶんアイドル全般に詳しいわけではないし、その歴史もたぶん知らないはずだ。
(彼ら自身ではなく、彼らが番組で演じていたキャラクター、ということに限定して書くが)
おそらく彼らはそうなりたくてもなれない人たちであり、できることは「ヲタ芸」を打って盛り上がることのみなのだろう(繰り返して書くが、あくまでも、番組内のキャラとして)。
(もちろん、今度はコンサートでのマナーの問題になってもくるのだが……。)
番組内では、「一般社会からはじきだされてきた人の居場所」として「ヲタ芸サークル」をとらえていて、それは実際にそうではないかもしれないし、本当にそういうサークルでやっている人にしてみれば「自分たちを人生の落伍者みたいに扱わないでほしい」という意見があってもおかしくはない。
が、「オタク」をものすごく大きくとらえたときの理念型としては、そうそう基本ラインからはずれてはいないんじゃないかと感じたのであった。
確かに面倒な人はたくさんいるし、できることなら自分もそういう人たちと酒を飲んだりはしたくない。
が、オタクのオピニオン・リーダー的存在の人がいるとするならば、何も一人ひとりにカウンセリングめいたことをする必要は無い。
この番組のように「ヲタ芸をやっていると楽しい」でもいいし「フィギュアを愛でていると楽しい」でもいい。
オタクというのは自分で自分を救うためにそういうことをやっているのであって、理念とか意見とかというものは、それを助けるだけでいいのである。
言われる方のオタク側も、どこかに救世主がいるかのような過剰な期待はしないことだ。
今回の番組ではたまたま「ヲタ芸」という、音楽に関係ある題材が選ばれていたが、これは結果的に示唆的なことになっているのである。「音楽」は、それ自体が快楽なのであって、背後に言語化されうるテーマなどがなくてもいいからだ。
救いはそういうところにけっこう転がっているものなのだ。
だから、「オタクはすでに死んでいる」と言われたとき(もっと前の「オタク・イズ・デッド」が出たとき)、驚いたのは、まるでその作者が自分たちの「親」か「先生」か「兄貴」であるかのように錯覚してショックを受けた読者がいたことだ。
だれが何を死んだと言ったって、それはその人の意見なんだし、どんな時代が来たって自分がやりたいことを粛々とやっていればいいのである。
なお、オタク論がカバーできない弱者ももちろん存在する。
それは、また別の方面の「理念」に任せるしかないことは、ここで強調しておく。
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