« 【書籍】・「青いムーブメント まったく新しい80年代史」 外山恒一(2008、彩流社) | トップページ | 追記 »

【萌え談義・その8】・「本当は萌えと特撮オタクは直結していかないといけないんだよ。」

90年代初頭くらいまで、何かに意見するときというのは常に上から目線で行かないといけないという雰囲気があった。
なぜかスタイルで「低姿勢」ってのはなかったんだよね。
後にそのスタイルはパソコン通信で、あるいはインターネットの掲示板で、踏襲された。

ああ、「相手を口で(文章で)言い負かそうとするとそうしなきゃいけないんだな」って、やっと今年も終盤になってわかってきた。
だけど自分ではそういうのイヤだったね。あまり意味があるスタイルとも思えない。

そして、さらにだけれども、さすがに自分でもこう言っていいと思うんですが、
「以下のことに気づいて、さらにネットにタダで書いてる自分は偉いなあ」と。

こんなこと、私滅多に書かないでしょ。
まるでいっさいの私的コメントをはさまなかったニュースキャスターが、湾岸戦争時に始めて「この戦争はやるべきではない」と言ったというような感動エピソードですよ(嘘です)。

・その1
前にも書いたと思うけど、「萌えの発見」という言説そのものが、先行世代、オタク第一世代と第二、第三世代とを区別して、第二世代以下の独自性を主張するためだった、ということがまずある。

歴史というのはどこかにポイントを設けなければいけないことは確かだ。だから、90年代以降のオタク的作品から初めて「萌え」というものが見出された、という事実があってもいいし、もっと感覚的に、「90年代以前の美少女作品には何となく萌えない」ということがあってもいい。
とくに感性は、動かしようがないから仕方がない。

しかし、本当は違うと思う。
かねがね思っていたが、「萌え」擁護者の中には「プロットやストーリーなんかどうでもいい」という人が少なくない。
ものすごく単純化すれば「動物化」とはけっきょくそういうことだろう。
「小さな物語云々」というのも、議論の余地はあるだろうが、「作品のテーマを厳しく問われなくなった」ということは、時代の気分として確実にあると思う。

「動物化の文脈でストーリーなんかどうでもいい」と思っている人はいくつかのタイプに分かれると思う。
ひとつは「本当はそうでもないのだが、戦略的にそう主張している」人々。
もうひとつは、もともと物語にストーリー性を重視していない人々。
そして、ストーリーを追うことに飽きてしまった人々だ。

とくに三番目について、自分は思うところがある。
そりゃ、何百本も映画やアニメやマンガを読んでいればパターンも読めてくるし、内情に詳しくなってくればどの程度の頻度で「面白いプロット、ストーリー」の作品が生まれてくるかもだいたいわかるだろう。
エンターテインメント作品というのはそれほど多様なテーマ(ストーリーを転がすときに重要な要素)を持っているわけでもないし、脚本家だって限られている。
そうすると習い性になって作品がまとっている「アウラ」は失われる。というか、感知できなくなってしまう。

簡単に言えば「飽き」。

でも「淡々と膨大な作品を観る人」というのは一定量存在していて、そういう人たちからは諦念をも通り越した、シニカルな言動が目立つようになる。

その結果が「ストーリーなんかいらない、萌えがあればいい」という言動につながっている。

・その2
そりゃ、元来フツーの人たちは「ストーリーを読み取って、テーマを理解する」ことが普通の作品鑑賞だと思っているから、「ストーリーなんかいらない」という物言いはセンセーショナルだし、耳目を集める。

しかし、

しかしだね、

それはけっきょく、「グルメ行脚を続けて、簡単なものには驚かなくなった食通が、『逆にこのつまんないお茶漬けがうまい』と言っている」ということと、
同じなんじゃないんですか?

いや中には本当に「ストーリーはとくにいらない」と思っている人はいるから全員がそうじゃないけど、
私はこうした「金持ちだからあえて貧乏暮らしが新鮮」とか「うまいものを食ってるからまずいものがいいと感じる」という感性を、無邪気に、エクスキューズなしに吐き出すことは、あんまりいいことじゃないと思っている。

だが、「萌え」という感性そのものは、自分は否定しない。
絶対にしません。
だけれども、「萌え」という感覚を普遍化したかったら、「世代の特権性」みたいな文脈から離れないといけない。

そのキーワードが「特撮」ですよ。

・その3
映画監督のマキノ省三は、映画に大切なものとして一スジ(脚本)、二ヌケ(映像)、三ドウサ(演技) と言ったという。
つまり、脚本イコールストーリーがいちばん大切、ということはかなり昔から言われていたことなのだ。
「萌え」に直結する「キャラクター」を構築する強い要素はたぶん「ドウサ」で、いちばん最後に置かれている。

ところが、この価値観を逆転させたのは、まず特撮マニアだったのではないかと自分は思っている。
少なくとも、それを文章に残したのは特撮マニアではなかったか。

たとえば、彼らはストーリーがクズでも、特撮が優れていればその映画を観ていたのである。あるいは、優れていなくても「特撮」が入っていれば観ていた。
その鑑賞姿勢では、すでに「ストーリー」は別のところにおかれている。軽視しているということはなかったが、「それはそれ、これはこれ」だったのだろう。

私は特撮マニアではないが、客観的に観てそれは「キャラクター目当て」で観るような「萌え」的鑑賞姿勢と非常に近いものだと思う。

しかし、両者を直結させる言説はあまり目にしたことがない(どこかでだれかが言っていたら、スイマセン(笑))。

具体的に言えば東浩紀にも、その関係者にも重度の特撮オタクはあまりいないようだ。観ていなければ言及しようがない。
大塚英志も、特撮には興味がないようだ。
町山智浩は特撮マニアらしいけど、たぶん現象としての興味以上のものは「萌え」に対して持っていないだろう。
岡田斗司夫も同様。

特撮マニアの立場からすれば、もちろん特撮も美少女アニメも両方好きな人はたくさんいただろうが、オタク第一世代、第二世代の一定の層には「オタクコミュニティでも、公然と『美少女アニメが好き』とは言えない雰囲気」があったので、あまり直結させて語られることがない。

おそらく美少女大好きである金子修介あたりがその辺のことをどう思っているかは、興味のあるところである。

・その4
ネット上でも、同人誌でも、商業誌でもいいが、オタク的言説に溢れている。しかし、それらはクリエーターにとってはノイズでしかないかもしれん。
でも、私は私なりに本気でやっています。

そして、なんでおおかたは「ノイズ」でしかない言説を私が重視しているかというと、

それを読んで気が楽になったり、自分の趣向を考え直したりという契機が与えられることがあるからで、
そういう言説は比喩としての「グルメ」のためにあるものではなく(「情報」のみならば「グルメ」も欲しているでしょうけど)、

そうじゃない、世の中の複雑なものごとに対してなんかもやもやしてる、どうしてなんだろう、と思っている人のためにあると思うし、自分は非力ながらそういう人たちのためにテキストを書いてます。多くの場合。
(だから、東浩紀言説にしても、「萌え」を通じて第三世代以降に「おれたちの世代」というものを認識させたという意味はあるとは思っています。)

そして、なんか書くならどこか常に「よくわからない人」のための入り口を用意しておかないといけないと思う。
とくにオタク論は大衆論なのだから。

・その5
ここから先は、関係あるようなないような話。

最近、若者が右傾化しているというので山本夏彦とかみんなどう思っているのか知らないけど、私と同世代からそれ以上の人たちってみんな大好きだよね。
団塊の世代に反感持ってる人は、山本夏彦大好きなんですよ。

でも私は嫌いなんですよ。
だって、あの人、自分が1万人のファンを抱えているとわかっていたら、その1万人に対してしか文章を発信しなかったからね。

そして、それはたぶん彼の「諦念」から来るものだったんだろうと思うけど、

私みたいなさあ、同人誌だってたいして売れない人間が、そういうスタンスはマネしちゃいけないな、と思って日々自分をいましめていますよ(山本夏彦の言っていること自体は、相当重要なことが含まれていると思うけどね)。

最後に、三次元の「アイドルヲタ」の言説も、特撮、アニメ、ゲームなどと足並みが揃っていない、それゆえの「萌え」言説の不備、ってものが確実にあることも、前にも書いたと思うけどもう一度指摘して、本稿を終わりたいと思います。

(追記)
めずらしく偉そうな書き出しで始めてしまったが、今となっては後悔しています。お願いですので、叩かないでください。泣きます。

補足

オタクの歴史性について

|

« 【書籍】・「青いムーブメント まったく新しい80年代史」 外山恒一(2008、彩流社) | トップページ | 追記 »

オタク」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

萌え」カテゴリの記事