「きっとコイツ、オレのこと興味ないか、キライなんだろうなあ」と思わせるブログ、ってのがある。
なんでそんなのを読んでいるかというと、私の方はとくにその人の主張がキライなわけではないからで、
そうういのって、なくないですか?
だいたい、その人が文中でチクチクdisっていることとかでわかるんだよね。
まあ、わかんないけどね。いざ会ったら愛想よくしてくれるかもしれないし。
初対面で愛想よくしてても、実はものすごくさげすまれていることもあるしな。
あと最近思うけど、
「オシャレなもの」が好きな人が困る。
困るってのは「キライじゃない」ってコトね。
実は。
もうさー、オシャレなものがキライな人はちょっとキライ、キライって言い過ぎると思うんだ。
最近ハッと気づいたけど、
下品なものが好きな人が下品なことをやめられないのと同じように、
オシャレなものが好きな人は、オシャレな行為をやめられないんですよ。
そういう人は、そういうふうに生きるしかないの。
オシャレなものがキライな人は、「無理しやがって」とかたいてい言うんだよね。
そうじゃないんだよ。だって、下品なものが好きな人だって無理している場合があるでしょ。
ノリで酔っ払って全裸で川に飛び込んだりとか。
そういう集団の構成員が30人いたとしたら、
ぜったいその中の数人は無理してるよね(笑)。
それと同じで、オシャレな人が無理しているのは別にその人にとって苦痛じゃないんだよ。
あっ、今まで上の文章書いたところまででネットウロウロしていたので違う話題。
私は社会評論みたいなものに期待しすぎていたのかもしれないな。
正直、5年、10年のスパンでそんなに社会評論的なものが変わるのなら、あるいは5年や10年の世代差でそんなに認識のギャップが出るのなら、何も書く必要ないと思うんだよな。
いや自分が文章書く場合、昨日書いたものだってなおしたくなる場合はあるけどね。
そんなに人間、ふだん生活していて本ばかり読んでるわけじゃないじゃない。
そうだなあ……雑駁に言って、30年くらいは文章に関して飛距離がないとダメなんじゃないか。
それが「役に立つ」前提とするならば。
単に読み捨てるだけなら、賞味期限が半日くらいの文章も存在していいと思うけど。
だって、たとえば「聖書」だったら2000年くらいはもってるわけでしょ。
価値として。
その日その日、辛い毎日をどう生きていくかというのと、それと一人の人間の人生、あるいは社会単位では50年、100年といろいろとサイクルがあるわけだけど、
それらが1冊の本に包含されているというのが、自分の理想なんだよね。
だから本当に優れた本というのは、刹那的な提言の中に、10年、20年はもつ内容が含まれていたりするけど……まあそういうことはほとんどないですけどね。
社会評論の本を読むと、ためになるけど疲れるし、どうでもいい読み捨ての本を読むより、あるいは抽象的にテーマが語られている小説もよりもイヤな気分になることの方が多い。
また、そういうのについて感想を書いているブログって、本当にそういうのばかり読んでいる人が書いている。
だからやっぱり疲れる。
そうすると、どうしても「教養って何だ」ってことに思考が戻っていくんですよ。自分は。