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【雑記】・「大衆参加の問題」

wikipediaの速報性(kikulog)
確かに「ウィキペディアにニュース速報並みの速さで記述すること」は無駄は無駄なんでしょうが、「そういう人」をも巻き込んでいるからこそのウィキペディアの充実度、という気はします(理系の記述がどれだけひどいか、実感として私がわからないという問題はあるにせよ)。

コメント欄のリンク先の、さらにリンク先の述懐を観ても、ウィキペディアには「心のどこかに自己顕示欲があり、しかしそれを普通の生活では満たすことができない人」が集まっていることがわかります(もちろんそれだけではない、見識の高い人もいるんでしょうが)。

これは、ネットができる以前の「大衆参加」が是とされてきたいろんなことに、常につきまとう問題です。
ぶっちゃけると、大衆社会の本質論的な問題なので、何かネット上のシステムで改善できないかぎり、「見識」を問題にすることにどれだけ有効性があるかは正直疑問です。

「2ちゃんねる」にさえ有用な情報が書き込まれ、また利用している人がいますから、むしろウィキペディアを「観る側」が方法として、「複数のサイトを観て確認する」などの方策を学んだ方が、有用性はあるかなと思います。

もっとも、私自身が「2ちゃんねる」の膨大な情報量から有用なものを抽出したことは過去にほとんどないわけで、そこにもまた「情報の摂取の仕方」に関して個人差があることがわかります。

大衆参加と、そこにさえ(あるいはだからこそ、か?)個人の能力差が生まれてしまうというのは、一種の宿命とさえ言えます。
まあ、「タダの情報は信用するな」ってことくらいしか思い浮かびません。

それと「オタク記事、芸能記事は正確である」ということに関しては、やはり「愛情の問題」というよりは、
「だれが観ても間違いがある程度わかる」ということに過ぎないのではないか、とも思います。

実際、歴史の論争などでもかなり紛糾するようですから。「ナントカ説」、「カントカ説」とか出てくると、それはたとえばアイドルの経歴なんかと比べてもよほど煩雑なわけで。

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