【雑記】・「現代アート(の一部)って……」
Chim↑Pom 広島上空にピカッを描き問題になり展覧会を自粛し中止に
いったんあるところに書いて消した日記を、ゼロから書き直してアップ。
私がこのニュースを知ったときには、「謝罪した」というところまでわかっていた。
で、そのとき瞬間的に感じたのは、
「『謝罪』という行為まで『アートだ』と言われたらどうするんだろう」
ということであった。
まず、この手の繰り返し起こる「事件」について、自分は「不道徳だからやるな」とは思わない。
これがマズいなら、他のいろんな「不道徳な」表現手段がすべてアウトになってしまうから。
ただし、「どれだけ人々に届くか」は考えた方がいいと思う。
そして、この「広島上空にピカッと書いた」ことは、何のおとがめもなかったとしても、あまり伝わらなかったんじゃないかと思うのだ。
現代アートの、その中でもとりわけこうしたパフォーマンス的なものの最大の弱点は、
「けっきょく、『アート』って名がつきゃなんでもやっていいんだろ」と、大半の人に思われてしまっている点にあると思う。
つまり、どんなに過激なことをやっても「それはアート、パフォーマンス」というイメージに回収されてしまうのである。
たとえば、私が最初に述懐したように「もしかして謝罪まで含めて『アート』って言うんじゃないか!?」とつい思ってしまう、そんな悪い意味での胡散臭さが現代のアート(の一部)にはあるのだ。
今や「マジ」と「ネタ」という言葉が当たり前のように繰り返され、テレビで連日行われる報道ですら一般人が「パフォーマンスじゃないか、これ」と疑ってしまうというような時代である。
もちろん、現代アートにおいてパフォーマンス的なことをやっている人たちはそんなことは了承済みだとは思うが、そんな中でのパフォーマンス(って、今言わないのかな。でもとりあえずその言葉しか知らないので使いますけど)はものすごくむずかしいと思う。
それと、Chim↑Pom側をフォローするなら、政治状況や社会問題を積極的に表現に取り入れようという試みは買えると思うんですよ。そういうの、最近あんまりないから。
だからこそインタビューで、「ポリティカルではない」などと言うべきではない、と私は思う。
本人たちは「突出して社会問題を扱う団体だと思われたくない」という気持ちがあるのかもしれないけど、日本では政治や社会問題とアート、エンターテインメントを絡めるというのは自然ではなく、かなり特殊な方法論だから。
……にしても、やはり一般人の「なんだ、アートか」とか「どうせアートって言えばいいと思ってるんでしょ」という感覚には相当重要なものがあると思うんだけど。
でも、それに気づいてる人たちって自分たちのやっていることを「アートだ」とは、まず言わないんじゃないかと思うんだよね。「アートだ」って言っただけで、「魔法」がとけちゃう場合って多いから。
根本敬とかが明確にそうだし、村上隆の作品に怒り狂っている人たちは「どうして彼はわざわざ『フィギュア』の持っている魔法性を剥奪するのか!?」というふうに思っているかもしれないからさあ。
ところで、
広島 Chim↑Pomの「ピカッ」はダメでも ツァイ・グオチャンの「黒い花火」はOKという記事、内容は正論だと思うけど、
やっぱり「どこまで人に伝わるか」と「影響力」ということを考えた場合、やはりその世界の最大のライバルは「はだしのゲン」であり、「夕凪の街 桜の国」なんではないのかなあ。
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