【雑記】・「『ハロモニ@』終了。」
ほとんどハロープロジェクト(主にモーニング娘。)のみを出演させていた番組「ハロモニ@」が、9月28日(日)をもって終了した。
ウィキペディアによると前番組の「ハロー! モーニング」が2000年4月9日から2007年4月1日までの放送、ついで「ハロモニ@」が2007年4月8日から2008年9月28日まで。
両者は基本的には別番組と考えるべきなのだろうが、本稿では「特定の女性アイドルグループの冠番組」として一緒くたに論じる。
いい機会なので2000年から現在までの「ハロプロ」について、ネットで見かけた外野や元ファンの言動なども考えつつ、とりとめもなく書いてみます。
・その1
まず、私の知るかぎり、サブカル系のポストモダン論者は「モーニング娘。」およびハロプロを認めたがらないような印象がある(その代表は、ミニモニ。に関してどこかで「小さいという理由で選ばれたんだから属性を動物化的にしたものだ」(大意)という思いつきを語っていた東浩紀)。
確かに、モーニング娘。というのはポストモダン論者にはきわめてすわりの悪い存在であった。それには以下の理由があげられる。
・結成当初の、鈴木あみを仮想敵にした「おちこぼれたちのグループ」という浪花節的展開
・楽曲が高く評価されたこと(アイドルを「記号的」に見たい論者には都合が悪い)
・最も話題となった「メンバー入れ替わり」にも、非常にウェットな物語がついて回っていたこと
・後藤真希、藤本美貴あたりがにおわせたヤンキー感
・女性アイドルとしては異常とも言える「長期政権」を誇っていたこと
だからこそ、ときには「メタ・メタ・アイドル」という苦しい表現も見られた(確かにそういう要素はあるが)。
モーニング娘。、およびハロー!プロジェクトとは、ポストモダン論者に限らず、アイドル史においてその存在を認めない人々にとってはあだ花というにはあまりに長期政権で、かといって「新しいアイドルのかたち」と言いきるにはあまりに浪花節だったのである。
そもそもが、「女性アイドル史」は、一般的に90年代で女性アイドルの歴史は終わり、あとはそれの縮小再生産(地下アイドルなど)という「史観」が当然だと思われていたのだ。そこに、恐ろしいまでのパワーを持って登場したのが「モーニング娘。」およびハロー! プロジェクトだった。
いまだに「モーニング娘。とはアイドル史においてどう位置づけられるべきか」ははっきりしていないのではないか。
・その2
で、その辺はやっぱり「いかにもなポストモダン感覚の揺り戻し」ということに尽きると思う。
つんくと同世代で、「シャ乱Q」を毛嫌いしていた石野卓球は篠原ともえをプロデュースした。
篠原ともえは、デビュー当時「ナゴムギャルのハイパー化」、「戯画化されたハイテンション文科系女子」とでもいうようなたたずまいで、これは明らかに石野卓球の時代に対する速度感覚を体現していたと思う。
また、卓球は巨乳アイドルであった細川ふみえにも楽曲を提供しているが、イントロを当時普通に生きていたらまず耳にすることのない「ガバ」風にしてみたりといった実験的なものだった。
この辺は「ミュージシャンがアイドルで実験する、遊ぶ」といういわば伝統芸能の継承であった。
一方で、卓球より前の世代だと秋元康がいる。秋元康こそ「アイドルポストモダン論」の実践者で、いかにも「スカした東京人」的なアイドルとの距離の取り方で「おニャン子クラブ」をプロデュースした。
秋元康は当然、おニャン子以降もさまざまなアイドルやミュージシャンをプロデュースしているが、80年代の「おニャン子」に終末観が漂っているのは、秋元のスマートすぎる距離の取り方が大きな要因だと思う。
メンバーの一人を妻としても、そのスマートな印象はゆらぐことがなかった。
つんくプロデュース(あるいはつんくが楽曲以外でも演出したとされる部分)は、その二人にはないウェットさがあった。
それは都会人的な感覚からは遠かったし、スマートなアイドル論を好む人にもひっかかりは薄かったように思う。
別の言い方をすれば、「メンバーの脱退、加入の繰り返し」や「ユニットをシャッフルさせる」というのは「会社的」で、その中で生身の人間であるメンバーたちがどうやっていくのか、の興味は「家内制手工業的」というか、浪花節的と言える。
たとえば作曲家の内弟子に入って何年も修行を積んだ演歌歌手が正統な「浪花節」で、秋元康的な……何の訓練も受けさせないで番組スタッフにCDを出させてしまうような感覚が「ポストモダン的」だとするなら、モーニング娘。およびハロー! プロジェクトはまさしく「その中間」に位置していたと言えよう。
そして、その感覚が薄れたとき、本来の意味での「モーニング娘。」の味も、大幅に薄まったと言わねばならない。
むろん、今でもファンは彼女たちを全盛期と同じように扱ってはいるだろうが、とにかくテレビにおけるキャラクターのフックがどうにもなくなってしまっている。
この辺はビジネス的な要因が何かあるのだろうが、もう私の興味のあるところでは、ない。
(なお、浪花節的な感覚を持っていたからこそ、加護ちゃん喫煙、辻ちゃんできちゃった婚、藤本美貴の相手が庄司だったというリアル、後藤真希弟の犯罪など、崩壊の過程もたぶんに浪花節的というか人間臭いところから始まっていったのである。)
・その3
つまり、ある時期までのモーニング娘。の面白さのひとつというのは、自分にとってポストモダン論的アイドル論者の思惑とは微妙にかけ離れたところに進んでいくところにあった。彼らが捨てて行ったものを、モーニング娘。およびハロプロは拾い上げ、商売にした。
まあ、それを主体にしたわけではないが(そんなことをしたらむしろポストモダン的になってしまう)、とにかく自分にとってのつんくプロデュースというのはそういうことであった。
思い返してみるといい。「動物化するポストモダン」の理屈をあてはめても、ほぼまったくあてはまらないのがモーニング娘。である。
また、だからこそ二次元、および萌えに強い軸足を持っている論者は、生身のアイドルにほとんど言及することがない。言及しても、おニャン子とか(秋元プロデュースの)AKB48とか、あるいは地下アイドルとかになる。
モーニング娘。が全盛期の方法論を用いなくなったのはいつからかは議論の余地があるが、完全になくなったのは「ハロモニ@」以前の「ハロモニ。」終了あたりだろう。今後、モーニング娘。は継続したとしてもアイドリングやAKB48と変わらない、普通の「アイドル」となるだろう。
しかし7年間、もうちょっと厳しく見ても5年間くらいは、彼女たちが「お茶の間のだれもが知っている存在」でなおかつ「アイドル」であった事実を消すことはできない。
アイドル論的観点からすれば、Perfumeの方がぜんぜん論じやすいわけで(彼女たちがアイドルかアイドルじゃないかの議論も含めて)、少なくともアイドル論的には平和が続くだろう。
極端な話、Perfumeの場合は「彼女たちはアイドルじゃない。だからアイドルはもう終わったんだ」とも「彼女たちこそアイドルだ。ポストモダン的な」とも言うことができる。しかし、モーニング娘。にはどちらもが当てはまらないのである。
このことを考えると、本当に、今でもワクワクする。アイドル論的に観るなら「巨大すぎる例外」がモーニング娘。およびハロー! プロジェクトだったからだ。
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