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【映画】・「アダムズ・ファミリー2」

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1993年
監督:バリー・ソネンフェルド、脚本:ポール・ラドニック

アメリカのマンガが原作らしいホラータッチのコメディ映画の、第二弾。
変わり者で、不気味なものや猟奇やオカルトが大好きなアダムズ一家が騒動を起こす……というのが基本コンセプトらしい。
実は、一作目を観て、わかりにくい(私にとって)ギャグが多いのと、「アメリカ人がイギリス流貴族ギャグをマネしている」という印象を受けてあまり楽しめなかった。

が、二作目はなかなかよかった(以下、ネタバレあり)。

ストーリーは、以下のとおり。
ゴメズ夫婦にベビーが生まれる。そのすぐ後にアダムズの兄・フェスターが乳母として雇われた女性・デビーと恋に落ち、結婚する。しかしデビーは、フェスターを亡きものにして財産を奪おうとしていたのだった。
それを見破った子供たち、ウエンズデーとバグズリーの二人は、デビーの謀略によって偽善まる出しの楽しい楽しいキャンプに入れられてしまう。
デビーの危険性を知らせに、逃げ出そうとする子供たちだったが……という感じ。

それにしても、この「2」は不思議な映画だと思う。
「アダムズ・ファミリー」の、(原作マンガの方は知らないが)映画のギャグのパターンは、物語を読んで「だれも死なない」と嘆いたり、子供たちがお互いを殺しあったり、生まれた赤ん坊まで殺そうとする(でもなぜか不死身なので死なない)というブラックなギャグにある。
このブラックの質は、「イギリス貴族ギャグ」とでも言うべきもの。「上流階級のやつらは何考えてるのかわからん/下流のやつらにはおれたちの趣味はわからんよ」という感じのものである。

反・主流ではなく非・主流のギャグと言うことができよう。

ところが、この「2」ではデビーによってウエンズデーとバグズリーはキャンプに入れられてしまう。
みんなが同じように楽しく、同じようにニコニコとして歌い、踊り、しかしマイノリティはしっかりサベツするこのキャンプで、ウエンズデーとバグズリーは(反・主流としての)マイノリティの立場に立たされる。
そして、クールに復讐を遂行するのだ(ウエンズデー演じるクリスティーナ・リッチはクールだねえ!!)。

このキャンプのパートは、あきらかに「社会的被抑圧者が抑圧者にいっぱい食わせる」という爽快感によって成り立っている。
まあベタといえばこれほどベタな演出もないんだが、ウエンズデーに恋する、何でもかんでもアレルギー症状が出てしまうメガネ少年の描き方なんて、「パターンだ」と思ってもグッと来るよなあ。
ウエンズデーは、きちんと最後までクールなウエンズデーであり続けるのもすばらしい。演出にブレがない。

そしてストーリーの軸である、結婚詐欺師(というか殺人者)デビーとだまされているフェスターのパートに戻る。
デビーは、実は子供の頃から自分の思いどおりにならない人間を何人も殺してきた女である。しかし、その理由はどうも単なる「わがまま」であって、とくにキャンプパートとのつながりを見せない(もっとも、デビーも「1」と合わせて全編通して皮肉られる「アメリカ中流階級の勘違いども」の一人ということはできる)。

デビーを倒した後、最後はアダムズ・ファミリーはいつものファミリーとしての結束を取り戻し、死をもてあそんだ不謹慎ギャグ(といってもカワイイものだが)がいくつか入って、映画は終わる。

……と、なんだか不思議な構造になっているのである。
とは言っても、デビーの過去とキャンプにおける「善意による洗脳」を同じ線上でまとめてしまうとえらく説教臭くなってしまっただろうから、バランス的にはちょうどいいかもしれない。

ネットで検索して、このシリーズを「子供の頃何十回も観た」、「人生のバイブル」、「趣味・趣向的マイノリティの生き方としてあこがれる」という意見をいくつも読んだ。

正直、演出はユル目だし、別に名画というほどではないのだが、だからこそ、たくさんの人々(大勢の、心の少数派たち)に感銘を与えているらしい。
こういうタイプの映画もあるのだな、といろいろと考えさせられてしまった。

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