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【雑記】・「ケータイ小説の分析って、そんなに必要か?」

なんか、たまたまネットウロウロしていたらいわゆる「ケータイ小説」を分析した本が何冊か出ていて、それの書評が書かれていた。
私は、それらの本をまだ読んでない。でもその書評のいくつかを読んですごく気になった。

・その1
まず、根本的な疑問として、なんで「ケータイ小説」を分析しなければならんの? 「ケータイ小説」を分析することの意義は、以下の二点にしかないはず。

・自分も「ケータイ小説」、あるいは「ケータイ小説的なもの」をリリースして、お金をもうけたい
・明らかに書籍を読まず、通常の文学には食指を動かさない「ケータイ小説」の読者の心情を理解し、彼女たちに向けた言葉をつむぎなおして、最終的に世の中をよくすることに役立てる

いやホント、笑うところじゃないから。まあ、「ケータイ小説」の読者が奪っているのがマンガの読者か、ライトノベルか、ゲームかはわからないし、商売上の分析をするのはわからないではない。
でも、ケータイ小説の読者を客として認識する商売の人たちが、本を出させるほどに数として存在しているっていうのが、よくわからない。

「世の中をよくすることに役立てる」っていうのは、冗談で言っているのではない。そもそもが、民俗学だとか、限界芸術だとかが批評・分析の対象になったのって究極的にはそういう意味合いがあったわけでしょ。
だから、そういう文脈でなら、まだ理解できますよ。ずいぶん前のことだけど「朝シャンがみそぎである」などと大塚英志が筆を滑らせたのも、その延長線上にあったんだろうし。

でも書評を読んで、「ケータイ小説にヤンキー文化が入っているなんて気づかなかった」だとか、「地方都市には何も考えずに不幸を感じ、なおかつそこから抜け出そうと考えもしない人がいるとは思わなかった」だとか、まがりなりにも、ものを考えてきたであろう人に何のためらないもなく書かれると、暗澹たる気持ちになる。

「それはむしろ出発点でしょうが!!」って。何もできない自分にいらだってしまう。

ヤンキー的な文化が地方都市に根付いていることくらい、毎年の成人式の騒ぎなどをテレビで観てればわかるし、「地方都市で悶々としつつなおかつ何にもしてない人がいる」っていうことも、パチンコに夢中でわが子を死なせてしまう親のニュースなどを観ていれば想像がつくだろうに。

けっきょく、そんなにも素朴な感想が出てきてしまうというのは、「ケータイ小説がものすごく読まれているらしい」という現象にのみ、興味とか危機感とか、そういう気持ちがわいた人が、「ケータイ小説が読まれることの説明」を欲しているから、それだけと考えてよろしいか?

じゃあそこにはさあ、主役たる「ケータイ小説の読み手」は、まあまったく不在とは言わないけどかなり陰が薄くなってきているじゃん。
そりゃ、いわゆるインテリの人たちにとっての「異物」として「ケータイ小説」が存在しているとすれば、どっかから頭のいい人が出てきて、その「インテリの、ケータイ小説のどこが面白いのかさっぱり理解できない」人たち向けに、それなりに納得の行く説明はつくり出しますよ。

「ケータイ小説」という理解できないものに対して、頭のいい人から別の頭のいい人へ、都合のいい「説明」が移動しているだけなんじゃないか? と、脊髄反射的には思ってしまいますよ。

いや、たぶんネット上で話題になっている「ケータイ小説」分析本は、それなりの妥当性を持っているのだろうとは思いますけどね。
ただ、反応が素朴すぎる。

この件に関しては、私は十年来、「頭のいい人」に対してイライラしてきているわけですよ。

・その2
どういうことかというと、まあ簡単に言って、
「通常の批評の価値基準からすると、対象にもならないくだらないものが常にたくさん売れている」という状況が、別にケータイ小説に始まったことじゃなく、昔からあったということです。

ここでまずカン違いしてほしくないのは、「大人の鑑賞に耐える」だとか「もはや単なる○○ではない」だとか、「芸術的」だとか「文学的」っていう価値基準がまずあって、それに対する批判は、現在すでに済んでいるということ。

要するに「高尚ですばらしい何かと、下品でくだらない何か」っていう価値基準は、とうの昔に意味がないと思われている。そこまではいい。
まあ簡単に言えば「クラシックはいいけど、ロックはダメ」みたいな単純な価値基準のこと。

で、次の段階で、別の価値基準が持ってこられた。たとえば「クラシック/ロック」がそのまま「いい/悪い」の基準にならないのなら、「ロック」内部の「いい/悪い」は、いったいどこで決められるのか? という問題ですよ。

まあ、ロックのことはよくわからんのでアレだけど、たとえばテレビ評なんかはいまだに「テレビのいい/悪いは、どこで決められるのか?」ってことで議論してる、あるいは議論するところまで行ってない。

テレビでたとえるなら、旧来の価値観だと「NHKのドキュメンタリーがいい番組/8時だよ!全員集合はくだらない、価値のない番組」というのがまずある。
で、さすがにそういういい/悪いでテレビ番組の価値を決めている人はもういないと思うけど、次の価値基準というのが、まだない。

たとえば、テレビバラエティにしたって、「昔はつくり込んでいたけど、今は即興性のある笑いばかりが求められる」とかさ、いまだに言ってたりするわけだよ!!
昔だって即興性のある笑いはあったでしょうよ。

いまだにそんなレベルなんですよ。

・その3
話がそれちゃった。まあ、テレビの例がわかりやすいんでそのまま進めますが、じゃあネットとかでテレビを論じている人でも、「笑い」とか「音楽」とか、あとまあ「テレビドラマ」でもいいか、そういう一方向の価値基準だとまあ何とかとっかかりがあるんだろうけど、
たとえば「テレビドラマ」において、「古畑任三郎」が高視聴率でなおかつ面白いドラマ、というところまでは論じられるわけですよ。
でも、二時間のサスペンスドラマね、なんとかワイド劇場みたいな。あれのよしあしになると、もうわかんないでしょ。私もわかんないよ。「弁護士なんとかかんとか」がシリーズ10作目まで行って、「女監察医なんとかかんとか」がシリーズ5作で打ち切られたとしても、果たしてそこに、物語重視の価値基準で決定的な差があるかどうかというのは、わからないですよね。

そうそう、書いてて思い出した。前にも書いたけど、十数年前のある年の「このミステリーがすごい!」の覆面座談会で、「なぜ『犬猫先生のUFO推理』だとか、そういう『ノベルズ』のミステリーが論評の対象にならないのか」という質問に対し、座談会メンバーが「リーグが違うから」って言ったんですよ。
でもそれ、ぜんぜん説明になってないんだよね。

まあ、ここで「我々はもっとハイブブロウなんです。そういう作品だけ選んでます」って言い切って、他はぜんぶ切り捨ててしまうという評価の方法も、あるにはある。
具体的に言えば、ラジオ「ストリーム」で豊崎由美は、ケータイ小説に対してほとんど論評に値しない、売れようが売れまいが自分のフィールドには関係ない、という意味のことを言っていた。

でも「リーグが違う」っていうことは、別リーグの存在を認めているということだから。確か翌年の「このミス」には、「このノベルズがすごい!」というコーナーが確かありましたよ。毎年やったかどうか忘れちゃったけど。
ちょっと原本を見ないで書いてしまうけど、たぶんノベルズ読者を切り捨てられないという事情があったんだと思う。で、それは単に「ノベルズの読者と、たとえばハヤカワミステリの読者とが、『このミス』においてかぶっている」という以前に、「ミステリ」って大衆小説だから、っていうのがあると思うんだ。

たとえば「インテリ」と「大衆」を分けて論じることはできても、「大衆」をさらに切り分けて、「芸術とかわかる大衆」と「そうでない人たち」ってのはちょっとわけにくい。

で、「ケータイ小説」ってのはまさに普通の小説とは「リーグが違う」ジャンルだったわけでしょ。
そんなの昔からどのジャンルにもあるし、でも、それを思いきって切り分けることができずにいるわけですよ。ほとんどの場合。
よほど傲慢に、大胆にならないかぎり。

その辺のことが、単純素朴にわからない人が多すぎる気がする。

・その4
「ケータイ小説」というのが、たまたま表現形態として目新しいから説明されているだけで、そのほかの「それまでの価値基準からすると論評に値しない、でも支持されるもの」が、その理由がわかるように説明されることって、ほとんどないからね。

しかも、「ケータイ小説がなぜ売れるか」の説明をみんなが欲しているということから、「ああ、他のジャンルでの問題点は見えてないんだな」っていうのが浮き彫りになってるんですよ。

それに、なんだかすっごいイライラするんですよね。

いや、ひたすらにハイブロウなものだけ追い求めてる、っていうなら筋は通ってるだろうけど。いや、ハイブロウなものだけ追い求めている人は、そもそも「ケータイ小説がなぜ売れてるか」ってことには関心を示さないと思うしなあ。

まあ、そこの問題点をクリヤする方法はいくつかあるんですけどね。

たとえば「センスエリート」という価値基準を持ち出してくること。
要するに、同じ大衆でも「デス・プルーフ」を好むのはセンスがある大衆で、「恋空」を観て喜んでるのはバカだとか。
でもそうなると、かなり自分で明確な、きちんと言語化できる基準を持っていないといけないから、なかなかむずかしくはあるんだけど。
「テーマが高尚か、重要かどうか」っていう基準におちいりがちだし、センス重視にするとハタから観て、一人の人間の中での整合性がわかりにくくなってくるんだよね。

あー長くなっちゃった。おわり。

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