« 【アニメ映画】・「崖の上のポニョ」 | トップページ | 【書籍】・「トンデモマンガの世界」  と学会(2008、楽工社) »

【アニメ映画】・「崖の上のポニョ」追記

このエントリへの追記。
まず、前のエントリではけっこうボロカスに書いてしまい、その後「追記」として「見どころがあるのは間違いない」的なことを書き加えた。最初のヴァージョンだけ読んだ人もいると思うので、いちおうここに「追記した」と書いておく。

次に、「ポニョ」がまったくどうしようもない駄作ではない、ということを前提とした上で、以下に私の気になったことをいくつか書いておく。

その1
まず一点。同じことを別の言葉で書いてしまうことになるかもしれないが、要するに「単純なプロット」だと製作者サイドが思い込んでいるプロットがちっとも単純ではないことが、どうしてもひっかかるということ。

「宮崎駿」だとか「67歳なのに」だとか「ウン億円かかっている」だとか、そういうことで作品にゲタをはかせて評価したりしてはいけない。ましてや、「トトロ」幻想などこの映画には何の関係もない(いちばんの呪縛が「トトロ」であったとしても)。

それこそ「猪木だったら何をやっても許されるのか!?」ということである。

本作は、その他の人の撮った「意図的にわけをわからなくした物語」と比べてどうか、ということを考えなければならないと思う。
私は勉強不足で知らないが、「わけのわからない物語」には歴史と伝統があるはずで、そこからアプローチする必要があるだろう、ということ。

たいていの「無意味や混沌を意図した作品」というのは、既存のプロットを意図的に解体している。たとえば、もっとも単純なものとしては「ある目的のために主人公が行動しているのに、主人公の意図を離れて物語がどんどんズレていく」なんていうのがある。
しかし、「ポニョ」の場合は、子供たちの小冒険があるなどして、あたかも主人公たちの目的は達成されたかのように描かれ、それにも関わらずイチゲンの観客にはそれが伝わってこないという構造になっている。そこにいら立つ。

その2
もう一点は、「絵がよけりゃ何でもイイのか」という問題。
実はこの問題は根が深い。たとえば怪獣映画、カンフー映画、アイドル映画といったジャンルでは、プロットがどんなにひどくても怪獣やカンフーやアイドルが映画の中ですごければ、それで目的が達成されるという性質を持っている。ポルノなんかもそうかもしれん。

細かい評論の変遷を私が追っていないのが自分でダメなところだとは思うが、ひとまず、「映像のすごさ」をかなり重要な評価軸とし、プロットを二の次にするという視点は、上にあげた怪獣、カンフー、アイドルといった、「映画」の本流ではないところから出てきたアンチテーゼであったはずである。

人間が描けているかとか、プロットに矛盾がないかだとか、そういうところ以外に映画の楽しみ方があるんだ、ということをつきつけた視点であるはずだ。
(似たような視点で小説に起こったのが「新本格ムーヴメント」であったと言える。そしてまた、ミステリ小説も文学全体からすれば傍流に位置する。)

ところが、「崖の上のポニョ」は、もう立派な「本流」になってしまっている立場にある。「くだらないかもしれないけど、実は動きがすごいんだよ」と言った語られ方は、もう最初からされないことになっているのである。

そもそもが、「広い意味で絵がよい、ということに関して、いったい観客はどの程度それを評価してよいのか」という問題は、(私が勉強不足なのかもしれないが)真剣に論じられてこなかったんじゃないか。
「絵の評価」が重要ポイントとして持ち出されてくる映画はたいていがB級であり、真剣な議論の衝突が回避されてきたのではないか。

あるいは、特撮やSFものに関して言えば、「プロットを深読みすれば実は大人向けである、だから評価に値する」という……たとえば「ウルトラセブン」の「円盤が来た」や「帰ってきたウルトラマン」の「怪獣使いと少年」などをことさらに重要視する視点と、

「絵がすごいからすごいんだ」という、「ナントカのシーンでカントカを合成するのがいかにむずかしいか」とか「光線があたってからそこが爆発するタイミングが絶妙だ」とかいった視点(裏返せば「テーマ重視主義」的な考えに対する反発)とが、ひとつの「論」の中であまりきれいな合致を見せない(少なくとも私のような素人批評に関しては)ということが現在に至るまでずっと続いているのではないかと、思ってしまうのである。

その3
最後に、「その2」の「絵がいい」部分の「絵のよさ」に関して、アニメーションのアニメーションたる最大の利点……「メタモルフォーゼ」を過剰に評価するという視点について。

「ハウル」において少女が老婆になったりといった流れもそうだったが、宮崎駿は手塚治虫同様、メタモルフォーゼにエロスを感じるたぐいの人のようである。
で、アニメの、映画とは違う特権性として連続性のあるメタモルフォーゼを評価軸とする視点はアリだ、ということは私はいちおうは思う。
しかし、こんな説教臭いことを書くのは本当はイヤなんだが、そこを過剰に評価するということは、もうそうした評者は「物語」には何の期待もしていない、ということになるだろう。そこに違和感がある。

だって、映画をメタモルフォーゼのシークエンスごとに切り取って鑑賞し、全体像としては重視しないという考え方だからね。そうなるとアニメ映画はすでに、どこからどう観てどこで切ってもいいということになってしまう。

たとえるなら、料理をどんな順番で食おうが勝手だろ、というような感じか。

要するに「その2」ではアンチテーゼというか一種のカウンターであった「絵がいいよね」という評価基準が、最近ではもう少しラディカルに、「絵がいいものこそが最高の映像作品」であるという評価基準があるということ……というのは「動物化するポストモダン」にたぶん書いてあることだよね。

でも、自分はどうしてもそこまでわりきれない。やはり大半の人が欲しているのは、今でも連続した「物語」だと思う。
話はちょっとそれて「動物化」の話になるが、私は「動物化概念」というのは、「ものすごくたくさんの物語を鑑賞・消費してきた人が、そこまでは行っていない人たちの消費行動を自分たちの、物語の可能性と限界をみきわめてしまった態度により、誤解・曲解している状況」だというふうにしか読めない。

だから、「ポニョ」を楽しんでいる、あまりむずかしいことを考えない人たち(夏休みだから観に来る親子連れなど)は「動物化」的に楽しんでいるのではなく、「あたかもひとつながりの物語を自分たちが理解しているかのように感じている」だけのことではないかと考えている。

その、一種のダマシのテクニックが「ポニョ」においては子供たちのお使いRPG的な小冒険だったり、「人魚姫」だったりするわけなのだ。

実際、何がなんだかわからなかった「ハウル」の評価は一般人にもよくなかったわけだし。

まあ、長々書いたけどそんなところである。

|

« 【アニメ映画】・「崖の上のポニョ」 | トップページ | 【書籍】・「トンデモマンガの世界」  と学会(2008、楽工社) »

アニメ」カテゴリの記事

映画」カテゴリの記事