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【書籍】・「ライムスター宇多丸の マブ論CLASSICS アイドルソング時評2000-2008」(2008、白夜書房)

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雑誌「BUBKA」で2000年から連載している、ラッパー・宇多丸によるアイドルソング評をまとめたもの。巻末には小西康陽との対談も収録。

私が最初「BUBKA」でこの連載を読んだのがいつだったかな。「萌え」的な視点による「アイドルそのもの」の状況論はネットに溢れていたけど、楽曲に絞った批評は珍しく、すぐに単行本になるのだろうと勝手に思い込んでいたことを覚えている。
そうしたら、まさか5年以上の歳月がかかるとは。本書を読むとハロプロの隆盛~停滞~アイドル冬の時代再び~Perfumeの台頭という、全体的に「アイドル」に対して世間が冷淡な現状が読み取れるが、同時に出版不況なのもヒシヒシと感じてしまう(本当はどうなのかは、知らん)。

個人的にすっかりアイドルに興味を失っていた昨今だったので、本書を読んでいろいろと過去のことが思い出せたし、また最近の状況が掴めて面白かった。

なお、本書で強くプッシュされている曲を実際に聞いてみたけど、いいのが多いのは確かです。杏さゆりのCD、確かこの連載見て私、買いましたよ。
要するに本書の著者が「目利き」として確かで、本書がアイドルソングのガイドブックたりえていることは、ひとまず最重要だと言っていいでしょう。

さて、以下は自分語りも含めて本書を読んで思ったことなど。長いです。

・その1
本書を読んでちょっと考えたのが、著者にとっての「アイドル」とは何か、っていうのが見えそうで見えない、というところ。
「萌え」基準は本書においては楽曲評価の一要素でしかないし。
だから、著者の考える「アイドル像」は、読者が外堀から埋めていくしかないところが、あると思う。

本書を読んで予想できるのは、たぶん「リアルな女の子像」を取り込んでファンタジー化した存在、としてアイドルをとらえているんじゃないかということ。
CDを聞いたときの、「上手い下手とは別の基準の、でもアイドルでなければならない、この感じはなんだ!?」っていうところに曲を聞くたびに立ち戻って、帰納法的に「アイドル」を常に再解釈している、のかな。

二次元好きのオタクの「萌え談義」とは本質的に違っている気がする。「萌え」中心の考え方になると、いかに空想、妄想が確立されるかが重要になって現実の女の子は関係なくなっちゃうからね。

ジャニーズを筆頭とする男性アイドル評や、男性アイドルと女性アイドルとの比較、「アイドル」に山田優や片瀬那奈が入ってる点から、そうとしか導き出されないんですよ。「生身の女の子が歌う」ということは、たぶん著者にとって重要なことなんじゃないかと思う。

別の角度から観ると、たとえば「アイドル冬の時代が小泉今日子の『なんてったってアイドル』から続いている」って書いていて、決して「アイドルは終わった」とは書いてないんですよね。「アイドルはおニャン子で終わった」というい定説もあるくらいなのに、「終わった」とは言ってない。

この連載が始まった2000年から現在まで、「擬似恋愛の対象」というふうに幅を広げるなら、それはまさに「萌え論の時代」だったわけで、にもかかわらず、この著書の中には「萌え」的な視点はほとんど入ってない。
まあ、「BUBKA」の別の座談会などではもうちょっと「萌え」に踏み込んだ発言をしているのかもしれないけど、少なくとも本書では言及がほとんどない。

それが面白いと思った。

「萌え」って言い出しちゃうと、すべてがグダグダになるというか、まあ「萌え」ってすべてをグダグダにするための思考回路だからね。そこを回避していることにこそ、本書の価値がある。

あ、それと「アイドルシーンは、ギミックではなく楽曲の力で変わるんだ」っていう信念が貫かれていて、それが「アイドル女優」でも「グラビアアイドル」でもなく、「アイドルの楽曲」を評価する、軸となっているところがいい。
実際、「アイドルソング」という観点から言えば、私もそう思うので。

・その2
だから逆に、アキバ系地下アイドルとかアイドルマスターとか、ああいうのは著者はどういうふうに思っているんだろうという興味も出てきたりする。地下アイドルに関しては、「閉じている」ということで否定的なんだろうけども……。
ただ「開かれる/閉じる」ということをつきつめていくと、アイドルって本質的に「閉じた」存在なんじゃないか、という疑問も浮かぶんだよね。

いやたぶん、それは著者の中では整理がついていると思うんだけど、ただ理屈としてはそうなってしまう。

これは本書の意図とはかなりずれた話になるんだけど、けっきょく「女性アイドル」というのは、「萌え」観点からすると「処女性」をいかに封じ込めて売り出すか、ということに尽きてしまうから。
「処女性」という観点から見ると、女性アイドルって、何でこの時期に、この段階でこういうふうにメタ化してきたか、っていうのがミもフタもなく見えてしまう部分がある。

たとえば、キョンキョン以前、松田聖子までは、本書でも書かれているように、女の子のだれもが髪型を「聖子ちゃんカット」にするほど模倣の対象だった。それは憧れから来る模倣だった。
ところが、それは松田聖子までで、次の段階から「アイドル」は、女の子にとって普通に「偽装、擬態」する存在になっていく。
それは、その変化が起こった80年代半ばから、変な話「処女性」を完璧に擬態する必要が、一般の女の子になくなってきた、ということでしょう。
「女性アイドル」が、「処女性」を封じ込めた存在だとすれば、それはまあ、女の子に人気がなくなってあたりまえで。
より「自然体」を装った歌手の方に、女性の人気はシフトしていくわなあ、と。

だから、「処女性」ということだけで言えば、本当のアイドルは聖子で終わっているはず。それを終わっていないとするなら、「非処女のアイドル」というものが成立するということを前提にしなければならない。

で、私は理屈上、成立するとは思うんですよね。
ただ、イメージの打ち出しがあまりにも弱すぎる。

そこが「アイドル冬の時代」の最大の原因かなという気はしています。「楽曲の強さのみがシーンを変える」っていう考えに私が同意する、ということと矛盾してきちゃうんですけどね。

この辺、非常にむずかしい。実は、「女性アイドルとは処女性を最大の売りものにする存在である」というふうに規定した方が、論は立てやすい。
しかし、そう規定してしまっては男という存在があまりに哀しすぎる! だから、私はしない。

・その3
前述のとおり、2000年から現在までというのは、アイドルシーンは盛り下がっていても、「萌え」関連は作品レベルでも、評論レベルでもものすごく盛り上がっているわけです。「萌え」というのは「完全妄想」の世界で、私が考えるに男性の妄想を凝縮して純化したものであり、自分が完全にコントロールできる世界。

メイド喫茶だとか、ああいう生身の女の子がやっているサービスもありますが、あれは女の子の「まあ、こういうことならやってもいいかな」という気分と男の妄想がたまたま合致した、別の言い方をすればズレをそのままにした状態で成立していると言えます。

で、「萌え」っていうのは脳内の妄想をいかに抽出するかという話だから、それを演じてくれる女の子がいればいたでいいし、いないならいないで妄想だから二次元でもフィギュアでもいい、ということになる。

そこが生身の人間がやっている「アイドル」とは、たぶん決定的に違うところですね。

生身の「アイドル」は、生身ゆえの面白さがなくちゃいけない。ところが今は、むしろ妄想を抽出して純化させる、という方向に、「そういうのが好きな」男たちの思考の多くは行っている、ということは言えます。

「萌え」を基調としたアイドルをつくる、ということになっても、明確にそれを演じさせる、演じることのみに専心するようになってしまう。
そうなってくると、生身の女の子も二次元とか空想の世界の女の子と並列して「萌え」的なものを演じているワン・オブ・ゼムにすぎなくなってしまうんだよねえ。

とにかく、今はそっちの世界が強すぎる。

でも、「楽曲の力がアイドルシーンを変える」ってのはやっぱり間違ってない、と思えてきた。
というのは、「生身の女の子のかわいさ」を最大限に引き出すのは、たぶん楽曲しかないんですよ。

他のどんな表現ジャンルより、たぶんそうなんです。「型」からはみ出したところに生身の女の子の魅力があるとすれば、そこしかないですから。

ただし、楽曲の表現として、いったいどこまでが男性ファンにとってアリなのか? という問題は残ります。

ハロプロが隆盛を誇ることができた理由として、やっぱりなんだかんだいってつんくの歌詞が男性原理に基づいている、ということは考えざるを得ない。歌詞の中には、まあまあ女性主導、みたいなものもあるけど、トータル的には昭和の、男性原理的なものが漂っている。

「ハロプロ」が、アイドル史を塗り替え、冬の時代を終わらせ、その歴史を更新した、と万民に思わせていないのは、歌詞で旧来の男性原理的なものを乗り越えられなかった、という要因が大きいと思う(「なんてたってアイドル」は、歌詞でそれまでのイメージを刷新したのに比べれば)。

で、「萌え」理論からすれば、ただひたすらに研究室で実験を繰り返すみたいに、純粋に妄想の世界で「どんなのが萌えるか」ってことを考えるということだから、これはまあ時流としてはみんなそっちにいくでしょう。

・その4
「アイドルオタク」っていうと、今はいわゆるアキバ系というか萌え系と重なっている部分もあるんだろうけど、しかし本質的な違いがあって、それは繰り返しになるけど「生身の女の子の演じた偶像を見ている」という点ですね。

だから、萌え急進派には「まだ生身の女の子に幻想抱いている」って揶揄されたりすることすら、ある。
どうも退行していると思われてるフシもある。でも、それは違うんじゃないかと思います。

閉じる/開かれるという二項対立があるとしたら、「アイドル論」っていうのは、脳内だけで徹底的に完結しようとする「萌え」理論に対して、「生身の女の子」を「外部」から導入して開かれたものにする、という意味が、たぶんあるんですよ。
まあ、その意味ではポスト・モダンじゃなくてたぶんモダンですよね。現状のアイドル論というのは。「虚構だなんだって言ったって、けっきょくはその向こうに生身の人間がいるんだよ」っていう。

で、それはたぶん「ファンタジーとしての女の子(男の子でもいいけど)」を愛でるにあたって、ほとんど決定的なスタンスの違いになっていくんじゃないかという気がする。

でも、もしかしてここが重要ポイントになるんじゃないか? ってちょっと思っています。あまりに「妄想」を強固に構築するのも、なんかあんまりいいことじゃないような気もするんで……。
妄想、思考実験としてもいわゆる萌えヲタよりもダサい、泥臭い、そこにこそアイドル論の意義があるんじゃないか、とすらちょっと本書を読んで思いましたね。

あ、本書の論立てがダサいという意味じゃなくて。むしろ、楽曲評価に徹底している点においてクールなんだけど。

どうもややこしくなるな。まあ「萌え」って「すべてをグダグダにする回路」なんで、「萌え」という考え方とそうでないものを比較するとかっこいい/ダサいの基準が逆転してしまうんですよ。めんどくさい。

要するに、完全な脳内の思考実験じゃなくて、「生身の女の子が歌ってる」という事実を受け止めるという地味なアプローチが、論理や諦観においてはある意味スマートすぎる「萌え」的考え方に対するアンチテーゼになるんじゃないか、っていうこと。

まあ、そういう「アイドル全体論」みたいなものは、たぶんこの著者は書かないと思うんだけど……。でも「萌え」論全盛の今だからこそ、「ちょっと立ち止まった方がいいんじゃない?」っていうブレーキのようなものに、もはや「萌え」における傍流ですらある「アイドル」の「論」が、なれるんじゃないかというふうに感じております。

っていうか、そこを超えないと次代のアイドル全体論はたぶんないですよ。だれかやって!

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