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【雑記】・「『少女革命ウテナ』から11年」

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実は「アキハバラ電脳組」について書いたのは、こっちについて書きたいから、っていう一面もあった。
去年書いておけばよかった。去年なら10周年、って大義名分があったから。


・その1
自分にとっては、テレビアニメはこの作品でほとんど終わってしまっているような気がする。あくまで私の中で、というだけの話だけど。

10年前、エロマンガ評論としては、「先鋭的なエロマンガはトランスセックスを志向している」という論調が強かったような気がする。男向けレズビアン、ふたなり、女装、人体改造などはすべてそうした観点で語られた。

実際、現在ではエロではないマンガでも「女装少年」がよく出てくるようになったり、ツンデレだの強気な女の子だのが流行るようになったから、まったくの間違いでもなかったわけだ。
しかし、自分としては当時から「そんなに男女の性差は劇的に越境できるものなのか?」という根本的な疑問があった。

だれも指摘してくれなかったから自分で書くが、「SFおしかけ女房」のコンテンツは、むしろ旧来の男女関係をほとんど無批判になぞっているがゆえに、ある種の人にいやなものを見せてつけてやろうくらいの気持ちでやっていた。
ところが、「SFおしかけ女房」というカテゴリは、後に「落ちモノ」という完全に小馬鹿にされた、「必要悪」とでも言わんばかりのニュアンスで囲い込まれるか、
「ハーレムもの」という、本来が「男の都合のいい妄想を都合のいいように展開するためにつくられた」基本設定を温存したまま表現だけを過剰にしていくという方法に進んだ。

ま、ここら辺の事情は理解できるのでいいんですけどね。

・その2
さて、しかしトランスセックスであるとか、あるいはフェミニズムであるとかいったものに、オタク文化においていちばんポピュラーなかたちで切り込んだのは、たぶんこの「少女革命ウテナ」だったのではないかと思う。

可能性とともに限界を表現していただけに、今でもその価値は下がっていない。

「ウテナ」の数年前に話題となった「エヴァンゲリオン」が、それまで有効だと思われてきた「少年マンガ」、「熱血アニメ」のフォーマットにいちいち疑問を呈してグチャグチャにして放り投げたのに対し、
「ウテナ」が結論めいたものを提示できたのは、今でもトピックであり続ける「ジェンダー」を問題にしたからだという一面はある。

もともとはおそらく「ベルサイユのばら」のより先鋭的な語りなおしという面を「ウテナ」は持っていて、「ベルばら」でいちおうの結論が出たものをもう一度メタ化してやったから、そのトンガリ度はすごかった。

そして、重要なのは男も普通に観たアニメだったということ。
言い方を変えれば、70年代から続いていた「男も少女マンガを読む現象」の、最後の尻尾だった気がする。

その後も「男で少女マンガを読む」人たちはいるが、「少女マンガ」という「型」が変質してしまっている以上、それを「男が読む」意味もまた、変質していったわけだから。

(だから「ウテナ」において、それまでの少女マンガの定型だった表現……。かわいい制服や女子の声援が飛ぶおねえさま、美形の男の子なんかがいちいち過剰なのには、それぞれ意味があるわけである。)

BLが「フェミニズム的観点から興味深いことになっている」という批評のおとしどころを最近よく見かける。
しかし、フェミニズムを広めたいがためにBL読書を勧めるのだったら、なぜアニメ「少女革命ウテナ」をその前に勧めないんだろうなあ、と、ちょっと思う。
もともとBLをめぐる態度は、BLを愛でる陣営(?)でも差があるし、矛盾もある。

フェミニズムというのは、とにかく広がらなければ意味がないものなんじゃないかと思うが、BLは本質的に同好の士で楽しむものだろう。BL愛好者は、世間の徹底的な無理解をも望んではいないだろうが、自分たちの趣味があまりに白日のものにさらされるのは、それはそれでイヤなんじゃないだろうか。

だから、「BLを通してフェミニズムを知ろう」という観点は、ある程度までは有効性があるが、本質的に限界を持っていると思う(まあ、「BL」と「フェミニズム」、どっちに足場を置くかでもまた変わってくるのだろうけど)。

・その3
「ウテナ」は、「バトル・ロワイヤル」形式を持つ作品の先駆的な存在でもある。なにしろ小説の「バトル・ロワイヤル」より古いのである(小説が1999年発行)。
「バトル・ロワイヤル」形式のプロットが、マンガやアニメに導入されるようになったことは(これもだれかが指摘しているだろうけど)けっこう重要で、「敵の不可視化」の最終局面だったからである。

殺し合いをさせる「当事者」はどこかに行ってしまっているという展開ね。「エヴァ」では「謎をひっぱる」ということで「見えざる敵がいつかは見えてくるかもしれない」という部分があったが、バトル・ロワイヤル的なアニメ・マンガでは「本当の敵」はもっと、ずっと遠くに遠ざけられてしまう。

「ウテナ」では最終的に「暁生」という「敵」の存在が明らかになるからそのぶん多分に70年代的なのだが、しかし、現在こうした「巨悪、本当に倒すべき存在とは何か」は、もう一度再考するべき時期に来ていると思う。

秋葉原無差別殺傷事件に関して、「なぜトヨタの社長を狙わなかったのか、なぜ六本木ヒルズを狙わなかったのか」といった、(いやそっちを狙ったらいいかっていうとそんなことはまったくないと思うが)話がネット上を飛び交ったのも、この「敵とは何か」がそろそろ問い直される時期に来ている」からと観るべきだろう。

現実の犯人は別に何も考えていなかっただろうし、環境が彼を育てたかどうかも今後分析しないとわからないが、宮崎事件が「おたくの犯罪」と受け止められたように、秋葉原の事件が「ワーキングプアの犯罪」と、「受け止められてしまった」、「解釈されてしまった」という事実は残る。

今後、物語性のあるエンターテインメントがいかにも70年代的な話に回帰していくのか、あるいは「バトル・ロワイヤル」的な、「強固すぎる敵・見えざる敵」に立ちすくむままでいるのか、またあるいは、第三の道があるのかは個人的に興味深いところである。

「アキハバラ電脳組」の感想とともに、結末が秋葉原無差別殺傷事件の話題になったところで、この稿を終わりとする。

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