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【雑記】・「ヤツの袋小路」(現時点で)

前のエントリで私が書いた「ヤツの恋愛幻想が、完全に逃げ道なしの袋小路に追い込まれていた可能性」について。


・その1
なんぼ「恋愛は幻想だ」って言ったって、恋愛しないと結婚できないわけです。

お見合いも、けっきょくは恋愛と同じ。顔も見たことない人と親の取り決めで結婚するわけじゃないんだから。
で、少子化にともない、ますます子供をつくる義務が生じてくると、もう言いわけのしようがなくなります。

子供がいなけりゃ、人類は滅んじゃうんだから。
「私は滅びてもいいよ」っていうのはひとつの考え方だけど、普遍性はなくなるよね。

だから、そこのところはどうしても袋小路になる。学歴とかお金とかは、まだ最低でも生きていける社会なら相対化できるけど、恋愛はそうはいかないんですわ。
恋愛を至上とする価値観を、完璧に論破するのは不可能なんじゃないかとすら思えてくる。

水商売の子と遊ぶのも、今の方が昔より肩身せまいかもしれないね。芸人ですら、テレビで女遊びのことを話題にしなくなってきた。
そういうのに詳しいのも、ちょっと昔なら男同士ならステイタスになったのにね。

中卒だろうがヤンキーだろうが、恋愛して結婚している人はたくさんいるが、恋愛コンプレックスが学歴コンプレックスと結びついてしまうと相当面倒なことになる。しかもオタクコミュニティにすら所属していない(できない)んじゃ、本当に孤独になっちゃう。

そうやって、脇道をどんどんどんどん排除していくと、最終的には、
「一人ひとりが、自己責任において特定のだれかを愛し、家庭を築いていく」
という、なかなかにむずかしい人生設計しか残らない。

加藤某は、自分のやったことの責任をきっちりとってほしいが(っていうか極刑を望みます)、
それとは別に、あまりに狭まった恋愛幻想というのは、それがかなわないとあらゆるコンプレックスと結びつき、人を絶望の底に突き落とす。

しかも、「自己責任」だから。だれのせいでもない。ぜんぶ自分のせいになる。

神なき世界というのは、ぜんぶ自分が責任取らなきゃいけない世界だからな。

それでまた、恋愛の面白いというか皮肉なところは、生活力がないとか、バカだとか、同性にむちゃくちゃ嫌われているとかでも、できる人間はできるということなんだよなあ。

これがますます絶望を深めるんですよ。

しかし、いかに価値相対主義者でも、恋愛幻想まで相対化するのはそうとうむずかしい。
それは、さっきも書いて繰り返しになるけど実際の社会と結びついてるからね。

(っていうかさ、価値相対主義的な言説を撒き散らしている人が、普通に結婚生活とかしていると個人的には腹が立ちます(笑)。あと「人間が苦手」とか「嫌い」とか言って結婚している人。具体的に言うと京極夏彦の人気シリーズに出てくる「関口」という男。ありゃなんですか(笑)。)

あーあれだ、いくらスポーツが苦手だとか嫌いだとか言っても、けっきょくスポーツをしている人間の方が健康だったりするのと一緒ですね。

ただ、私が「非モテ」とか言うのに反対だ、とずっと思っているのは、
仕事とか恋愛っていうのは人生において一本道で、いったん降りたら乗りなおすのがすごくむずかしいから。

「そんなの、降りちゃいなよ」とは言えないんですよ。言ってる人間がいたとしたら、無責任。

・その2
よく、「自分はモテなかった」とか「ダメ人間だった」ということを売り物にしている文化人とかがいて、そういう人たちは少なくとも「今までの人生でふられたことがない」って公言してる人(20年くらい前、小田和正が本当にそう言っていた)よりは信用できるとは思う。

しかし、話のディティールをつき合わせていくと、けっきょく無限の差異が生じてしまう。
「ああ、この人、モテないとか言ってるけどおれよりはモテてたな」とか、
学歴コンプレックスと結びつくと、「この人、モテないとか言ってるけど学歴はあるんだな」とか。
あるいは「金はあるんだな」とか。

成功者、あるいは成功したい人というのはその思想や体験によって共生することができるかもしれないけど(そういうサロンに所属するとか、自己啓発的な意識を共有するとか)、
「ダメ」っていうのは、「あいつよりマシ」とか「おれはこいつより下なのか」とかっていう意識がどうしても出てくるから、共生がむずかしいのではないかと考えるんだけどどうでしょうか。

いや本気でコミューンとかつくるなら別だけど、「ダメ人間の代表」的な人をカリスマ視することは、本質的な矛盾を抱えていると思うんですよね。

だからさー、岡村靖幸の「カルーアミルク」っていう曲を聴いたら、「成功」側、「モテ」側に行っちゃった人が、ダメだった頃の自分の、ダメだけどもイキが良かった時代が懐かしい、という内容だったんでビックリした。
よく「万年青年」って言って、実像はどうあれ、「いつも年甲斐もなく悩んでいる」ような、一時期までの森本レオや下条アトムが演じる役のような、そういう存在が人を安心させることも確かなんだが、

岡村ちゃんは、(こんなこと書くの今さらだと思うけど)むしろ「若造」とか「青二才」といった立ち位置から、まがりなりにも成功した人間を、その内省もふくめて引き受けようとしていたのかな、と思うと実に考えさせられる。

今、イメージの世界では、「モテない怨念をかかえてる」人か、「恋愛真っ最中でラブラブの人」か、そして時間が経って「鬼嫁に苦しめられている人」という、一足飛びの図しかなくて、その過程があんまない(あったとしても、必要な人に届きにくい)。

よく、電波系の人のチラシとか観ると本を読んでないのがまるわかりで、テレビから来るイメージしか、「電波」の源泉になっていないことが多いけど、
加藤某の怨みイメージの源泉も、たぶんテレビとネットくらいしかなかったんじゃないかと思う。

でも注意深く探さないと、「いろいろなイメージの中間のイメージ」というのはなかなか見つからないんだ。

マスコミは、どんなことをするにしてもまず一点、おとしどころを見つけてから放送するから、それは「点」の存在であって、「線」の部分というのはイメージの世界で見つけるのはなかなかむずかしい。

……ということを考えました。この文章つまんないね。おれ、本田透にはやっぱりなれないや……。どうせ早稲田出ている人間には何やっても勝てないんです。勝てる、って人がいたらそれは早稲田受験すれば入れる人。

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