« 【映画】・「シューテム・アップ」 | トップページ | 【雑記】・「むかしの方がきつかったに決まってます」 »

【雑記】・「たまたま目にしたから書く話」

繋がりという共同幻想(大石英司の代替空港)

そこへ行くと、2ちゃん以降の名無し同士の会話。それも携帯となると、長いテキストは書けないから、「繋がっている」と言っても、それは錯覚に過ぎなかったりするわけでしょう。本人の、この空間では自分の存在意義がある、という錯覚に過ぎない。何やらそれを増幅しがちなケータイ小説とかいうジャンルまである。
 パソコン通信のようなタコツボ的な空間で、ハンドルでやりとりして、たまにはオフで会ったりするんだけども、それでも疎外感を持つことはあるわけでしょう。

 この犯人に必要だったのは、ほんの数名のコミュニティで構わないから、彼の実像、正体を知っている者同士が集う空間だったんですよね。でも彼はそういう所で、自分が望む本当の姿ではない自分の惨めな姿を晒したくは無かった。この辺りは、実は2ちゃん型が主流になったネットのBBSの中で、みんなが抱えている問題なんですよね。

いや、それを言い出したら、素性がわかってたって実像がわかってたって、隣人の考えていることはわからんことがありますよ。
こういう論立ては、どうにもこうにも「金八的」というか、「同じ釜の飯を食えば仲間」という安易な幻想だと言えます。タイトルの「繋がりという共同幻想」というのは、文面からするとどうやら「2ちゃん以降のネットでつながっているという、共同幻想」ということらしいけど、それを言うなら家族だって共同幻想ですからね。

というか、まがりなりにも論として成立させようとするなら、戦後の核家族化そのものが、ことのはじまりだったということを肝に銘じなければならないでしょう。
核家族化とは、言いかえればニューファミリー。そしてそれを支える経済状態、下部構造ももちろん入ります。

やや勇み足をするなら、加藤容疑者の母親の「教育」は何が目的だったのか、ということでもある。

普通に考えれば、核家族の維持、継続でしょう。そして息子に、成年に達したら新たなる核家族を持ってもらうということでしょう。
それで、その息子は「彼女がいなければ人生崩壊」って思っていたんでしょ。なんで人生崩壊なのかというと、そうしないと核家族が持てないからですよ。その端緒にすら立てないから。

つまり、「ネットで人とつながっていると錯覚する」ことと、「彼女がいなけりゃ人生崩壊」っていう帰結は、最終的にはつながっちゃうんですよ。

「ネットのつながりの希薄さ」について書くなら、そこまで書かないと。

今のところ、加藤容疑者は別に引きこもりでも何でもなく、職場で彼とつながりを持とうとした人がまったくゼロだったとは考えにくいから、「ネットがどうこう」っていうのは悪い言い方をすれば「床屋ナントカ」です。

ムラ社会で起こった「津山三十人殺し」なんてのもありますからね。「同じ釜の飯を食えばうんぬん」は、ムラ社会の美徳を運よく享受することのできた人の、理想主義と言わざるを得ません。
とくに今のところ極端な階級社会にはなっていない日本なら、なおさらですよ。

(とはいっても、「同じ釜の飯」の効能というものも、認めざるを得ない部分が私にはあるんですけどね。)

加藤容疑者の件は、つきつめていけば日本人全体としては例外、レア・ケースということになってしまうと思います。
が、ネットとからめて「繋がり」ということで論じるとすれば、むしろ「同じ考え方を共有する」という「思想的共同体」というか、そういうのがまったくなかったと思われることの方が問題だと思います。

|

« 【映画】・「シューテム・アップ」 | トップページ | 【雑記】・「むかしの方がきつかったに決まってます」 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事