【雑記】・「何かがすでに死んでいる件の書評を読んで思ったこと」
書評を読んでそれについて感想を書くと面倒なことになるので読むまいと思っていたが、けっきょくいくつか読んでしまった。
で、やっぱり気になったことをいくつか。
以下は、該当著作の内容ではなく、それを読んだ人の感想について、私がリンクもせずに思ったことを書くということです。
まず、「濃いオタクがいて、後から薄いのが参入してきたから問題が起こった」という意見について。
そのレビュアーの年代がわからないから何とも言えないが、こういう感覚を持っているのは歴史的には現在三十代後半から五十代前半くらいの人までで、それより下になると「本当にそんなこと、思っていたのかな?」と感じる。
実はそういうことを言っている人が別の人から「あいつは薄い」、「よくわかってない」って言われてしまうのもよくあることで、「自分なんか薄い」と思ってそういう人にビビってる人は、用心した方がいいです。
前にも書いたけど「オタク」概念というのは、一種のエリート主義と、一方で「創作の大衆化」という両面を持っていて、どちらに軸足を置くかでその人のオタク論のスタンスが決まります。
自分は、その「軸足」そのものに自覚的でない人のオタク論は、あまり信用してません。
次に、「オタクは他者に認められなくてもいい存在だった」というのも本当だろうか?
これは前のエントリにも書きましたが、議論があるところでしょう。
しかし、「両面あった」というのが妥当なところじゃないでしょうか。
さらに、「オタクは、自分で面白いものを見つけて自分で楽しんできた」というのもどうだろう?
実はオタクバッシングというのは、「オタク概念」が出てきてすぐのときには非・社会的なことをしているということと同時に、その「凡庸さ」が批判の対象になっていた、っていうことを忘れたわけじゃあるまいね……。
というか、「オタクのエリート性」が骨身にしみちゃっている人は、仲間も面白い人が多いんで「凡庸さ」と言われてもピンと来ないんだろうなあ、とすごく思いますね。
なんで一時期のエロ同人は、ゲスト原稿が何枚かあって、あとがきに「これが印刷に間に合うかどうか……」みたいなことが書いてあって、というふうにフォーマットが似ているのか?
なぜ結果的に服装が似ていたのか?
似たようなしゃべり方をしていたのか?
そもそもが、「スタイル」として確立されるということは、その集団内の個人に何らかの類似性が認められるということですから、それは否定的な意味でなくても特定の集団には「凡庸さ」がつきまとって当然だと思うのですが。
ヤンキーやギャルがみんな似たようなカッコしているのと同じで。
そして、「オタクはつくられるのではなく、生まれるのだ」という、運命論的な考え方は?
これは非常に疑問です。まあ、自分の趣味・趣向を一種運命論者的に引き受ける、という文脈でのレトリックなら好意的に解釈できますが、ある文化的スタイルが、そのときそのときの社会情勢などに左右されるのは当然のことです。
こういうことを、あまりに軽々しく言う人間も信用できかねますね(血を吐くような真剣味があるなら、信用しますけど)。
嗚呼、なんだかもうすべてにうんざりだ。
泣こう。
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