« 【雑記】・「矢野健太郎先生がブログ開設!!」 | トップページ | 【雑記】・「素人参加番組がなつかしい。」 »

【雑記】・「倉科遼問題」追記

思ったところを補足、追記。
まず、誤解を受けるかなと思って強調しておきますが、私は呉智英はものすごく優れたレビュアーだと思っています。

それと、言葉が足りなかったので補足しますが、
マンガ評論は必ずしも芸術的、あるいは高踏的な作品ばかりを取り上げていたのではありません。

というか、逆に「IKKIやビームに載っているマンガしか読まない」というマンガ評論家なんていない、という方が正しいでしょう。

この点は、「こじゃれた、何かを語っているようで語ってない、蓮見重彦フォロワー」を、町山智浩氏がほぼ絶対的な仮想敵として「あちら/こちら」あるいは「やつら/我々」という対立構造として認識し、その図式が成立し得る、日本の映画評論界などとは違うところです。

あるいは、大塚英志がかなり前から「少年ジャンプも読まずに、サブカル的なマンガしか評価しない人間は気に食わない(大意。一言一句たがわずにそう言ったわけではありません)」と言っていますし、永井豪なんかを語っていた橋本治にもそれは通じます。

要するに、「マンガ」というのは、そのジャンルそのものが「オシャレ」とか「文学的でカッコいい」というところから、遠くかけ離れていました。
80年代半ば頃に「ニューウェーブコミック」というのが出る前は、マンガというのはオシャレかダサいか、と言ったらそんな論評以前のものでした。

だから、もともと言葉にしにくいというところはあれ、横山光輝だって北斗の拳だって少なくとも80年代には語られなかったことはなかったと思います。
「文学の代替物としてマンガが語られるようになった」ということは70年代頃から確かにありましたが、

あくまでもその前提には、「みんな手塚治虫や赤塚不二夫や谷岡ヤスジが大好き」だった。

だから、高踏的な場合でも、他のジャンルとマンガの評論はちょっと違うところがある。

それと「バカ漫画」という表現ですが、まだ自分にその意志があったら別枠として書きたいんだけれども、
たとえば「アストロ球団」、「リングにかけろ」、「キン肉マン」とかあの辺ね、

ああいうの、マンガ評論家もみんな普通に読んでいた。同時代的に。
確かに評論家の言及は少なかったかもしれないけど、だからといって不当におとしめたりしているわけではなかったはず。

それはマンガ評論史として重要なことだし、たぶん、マンガ評論の特殊事情ですね。

たとえば、少年ジャンプなんか読むことは思いもよらないで、前述のようにIKKIとかビームとか、アックスとか、そういうのしか読まず、
なおかつ評論も読んでいる読者がいるというのならそこに「語る」必要性が生まれるんだろうけど、別にそういうのなかったからね。
そういう層って、たぶん存在してないから。

町山智浩が、ポッドキャストで「スカーフェイス」をけなした蓮見重彦をそれからきらいになった、と言っていたけど、
日本のマンガ評論界で、そういったたぐいのことって、たぶんまだ起きていないと思いますね。

そういう前提があって、初めて、
「文学が衰退したぶん、マンガに加担しようとした人々」の意味がわかってくる。

そういう人たちでも、サザエさんとかアサッテくんとかぜんぶ読んでたからね。
なにも、ゼロの状態からイッチョカミしようとしていたわけではないから。

今「文学」って書いちゃうとそれだけで高踏的なイメージがあるのかもしれないけどそうではなくて、
「マンガで文学の衰退を埋め合わせる」という以前に、
60~70年代、
まず戦前の左的な運動が一般庶民に配慮していなかったのではないかとか、
それと70年代以降も、左の運動がうまくいかなかった反省から、
「一般庶民は何を考えているのか」ということを勉強しないといけないという風潮があった。

その流れの中で「マンガを庶民がどう読んできたかを考えよう」みたいのが柳田民俗学を読むとか、そういうのとともにあったから、
かなり以前から、取り立てて高踏的ではないマンガについて考えよう、という動きはあった。

マンガ評論では、代官山/新宿歌舞伎町みたいな、ごく単純化した二項対立ってないんですよ。

今のところ思うのは、それくらいかな。

|

« 【雑記】・「矢野健太郎先生がブログ開設!!」 | トップページ | 【雑記】・「素人参加番組がなつかしい。」 »

マンガにまつわる雑記」カテゴリの記事