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【雑記】・「倉科遼問題、ってのがあるんですよ。」

倉科遼問題。
それは、だれもあまり問題にしてないが恐ろしい問題である。

過去にも何回か問題にしてきたが、どうせブログの過去ログなんてみんな読みやしないだろうから、繰り返し書くことにする。

・その1
以前、某大御所マンガ評論家(っていうか、呉智英だったかな?)が「倉科遼のような、一般人が読むようなマンガを評論家はもっと評価すべきではないか」というようなことを言っていた。

それに対する、ネット上での「今頃倉科遼とか言ってるけど、そこら辺の人でも普通に読んでるし、そもそも『評価されてない』ってだれに評価されてないってこと?」という反論めいたテキストを読んだことがある。

ここにはいろいろな問題が含まれている。たとえば、マンガ評論家が必ずしも優れたレビュアーとして機能しきれていないという現実があることをまず、表している。
優れたレビュアーとして機能していれば、それがいい意味で「権威」となり、「倉科遼が評価されているかされていないか」は明確な問題となるのだ。
が、状況はもう少し複雑である。

もうひとつは、呉智英が問題提議しているのは「マンガ評論は、文学的、芸術的、高踏的な作品ばかりを題材にしがちだが、もっと『ふつうのマンガ』も取り上げて評価すべきなんじゃないか」ということなのだが、
果たしてその問題提議が、問題提議として現在でも機能しているのかどうか、ということがある。

ひとまず、呉智英の問題意識について(勝手に)解説すると、
そもそもマンガ評論というのは、文芸評論になり代わるべき存在としてあった時期があるように私には思える。
要するに「衰退した文学の代わりを、マンガが担ってくれるのではないか」という期待である。
これは70年代の、「24年組」の少女マンガ家評価の背後などにある考えだった。

橋本治のマンガに言及する文章や、あと呉智英もそうだし、大塚英志にもその傾向がある。
変な書き方をすると「文学」に対して挫折感というか敗北感を持った人たちが、「マンガ」に何かを託したらしい。

・その2
一方で、文学評論の分野でも「高踏的なものばかりではなく、大衆的なものも評論しなければ」というような動きがあったらしい。
私は文学に疎いのでアレだが、平岡正明とか笠井潔とかにはそういう傾向がみられる。具体的に言えばSF、ミステリ、幻想文学、官能小説などを(ジャンル小説としてではなく)評論の対象にした流れがある。

マンガ評論において「ふつうのマンガを取り上げるべき」という提言は、要するに「ブンガク的なマンガを評論すべき」という感覚があって、その次の段階で「でも大衆的なマンガもやっぱり大切だよね」という、SF、ミステリ、幻想文学を評価するような流れになっている、とひとまずは考えられる。
(たぶん、厳密に言うとおかしくなってくるとは思うんだけどね。「のらくろ」や「サザエさん」について書かれた評論も、いくつかあるので。でもあくまでも、わかりやすくするために大雑把な流れにしておきます。)

・その3
で、そういう流れの中で、呉智英に絞るとビッグ錠や成田アキラなどの高踏的でないマンガ家も積極的に取り上げてきている。だから、「なんで倉科遼をみんな話題にしないのか」という問題提議は、呉智英周辺の人々にとっては、たぶん機能しているのだろう。

そして、その流れで、「呉智英は頭のいい人とばっかり接しているから、倉科遼を読んでる人を知らないんじゃないか」ということを、

私が言いたいのでは、むろんない。

ぶっちゃけると、「倉科遼って、面白いか!?」ということが言いたいのである。

マンガに限らず、映画でも音楽でもそうだが、「おしゃれ、高踏的」なものへのアンチとして「庶民的、わかりやすい」ものが対峙されることがある。
私もどちらかというと、「庶民的、わかりやすいもの」が好きなので、ときどき「倉科遼って、面白いですね!」と言われるんだけれども、

正直、手放しで評価する気にはなれんのですよ。

で、これがちょっと古いけど「ハートカクテル」とかだったら、「おしゃれぶってんじゃねえイナカモンが。肥溜め風呂に入ってろ」で済んでいた。
しかし、「庶民的なマンガも評価の範囲内に入れないといけない」と思っている人は、倉科遼作品にそんなこと言えないわけですよね。
倉科遼作品は売れているだろうし、「庶民」の欲望をダイレクトに突いているわけだから。

だから、倉科遼問題はむずかしいんです。

別の角度から見てみましょうか。
私、マンガ表現論のことはよくわからんけど、表現論的なことを言いますとね、

倉科遼作品って、言葉で説明しすぎなんですよ。

よくあるのが、1ページとか見開きページをまるまる使ってワンシーンを描き、そこにフキダシを3つとか4つとか並べて、文章を配分するというケース。
これって、たぶん原作のシナリオ自体が、場面転換を伴わずに説明文をダラダラ続けてるから、仕方なく作画の人が、変化をつけるためにやっていることでしょう。

他にも、マンガ家さんが工夫して、コマを分割してそれなりの流れをつくり、そこにフキダシをいくつか(一人の人間がしゃべっているセリフが入っている)を配分するという方法も散見されます。

それと、バカ正直にまでキャラクターの心情を文章で表してしまうというのも、倉科遼の悪いクセです。

これってどういうことかというと、評論家が評価しそうな「面白いマンガ」の「面白さ」の条件は、満たしていないということなんですよハッキリ言って。

ところが、売れているわけでね。

・その4
もちろん、「なぜ売れているか」の分析は、わりと安易にできるんですよ。
倉科作品ほど、水商売の仕組みについてリアルに描いた作品は過去にそんなにはなかったし、「借金モノ、金貸しモノ」がバブル崩壊あたりから出てきている、その裏返しとしての「ネオンもの」の人気、ということは容易に考えられる。

しかし、それはあくまでも現象の話。それだけでは倉科遼の人気を説明したことにはならない。
で、自分が出した結論としては、
「もしかして、倉科マンガをものすごく面白いと思っている人たちは、『コマ割りのうまさ』とか『コマの流れ』、『絵とフキダシのバランス』と言った、マンガ本来の面白さとされてきた部分をまったく無視して、単に『絵』と『セリフ』を分離させて読んでいるのではないか?」ということです。

これ、本当に大問題ですよ。
というのは、マンガ評論家がどんなに「マンガはどうして面白いのか、人をひきつけるのか」っていうことを説明しても、「ふつうの人」はぜんぜん違う見方をしてる、ってことになっちゃいますからね。
「絵と文章を別々に読む」というのは、絵物語の読み方ですよ。読者の読解力が衰退したのか、それとももともとそういう読み方をする人が昔から存在していたのか(私は後者だと思っていますけど)。

で。
「だからマンガ評論家とかレビュアーは必要ない」っていう結論には、自分はならないんですよね。

むしろ、「技術論ではわりきれないが大ヒットするマンガ」というのが確実に存在しているからこそ、そこに売り上げとは別の評価基準があってもいいじゃないか、と思うわけです。

正直、「大ヒットしている超メジャー作品に評論家は、もっと目を向けないといけない」というような提言を、越えないといけないと思っているんですよ。
「超メジャー作品に目を向けて、それを評価せよ」ということを突き詰めていくとどうなるかというと、

「文章で評価する人自身が消失してしまう」んですよ。

だって、超メジャー作品というのは「売り上げ」という「数字」ですでに評価されているのだから、それ以上つけくわえることはないはずなんです。

ということは、その時点で評論家はおろか、レビュアーの存在価値も消失します。消費者は、売り上げランキングを順番に見ていくだけでいいということになる。

そこにどうしてもわりきれないんですよ自分は。売り上げランキングは、それはそれとして立派な評価基準ですよ。

でも、完全に「機能美」だけを追求していくと(「機能美」っていうのは、作品が「受け手を喜ばせる」だけの一種のマシーンになって、その「受け手の快楽」だけを突き詰めていった果ての美しさ)、そこに「味気ない」と思う人が、人数的には少数、しかし確実に必ずいつの時代でも現れる。

そのもやもやが、まあ今私が書いているような文章になっていくわけです。

・その5
そもそもが、「何かを評価する文章」ってそれだけでどうしても上から目線になってしまうんです。でも実際は、そんなことちまちま書いているやつの方がずっと少数ですよ。
でも確実に存在するんですよね。

今、行われている議論っていうのは「おまえら、偉そうだけどしょせん少数じゃねぇか」っていうところにとどまっていると思う。それはまったく正しい。それは、もうわかった。

しかし、少数ながらどんな時代にも確実に残る「機能美以外のところでものごとを評価したい人たち」のモヤモヤをどこへ持っていくか。自分は、議論をそういう段階に持っていきたい。

そうでないと、倉科遼をどのようなかたちで、どう評価するかという回答は、少なくとも現在レビュアーにある評価基準では得られないはずなんです。

本来、昼休みに弁当と一緒に買って、読んで、楽しまれ、捨てられていくたぐいのマンガ、そういうものをむずかしい言葉で飾り立てて評価するのは間違っていると私も思う。
しかし、そこまでの議論は終わりとしたい。

次の段階では、「売れたものこそ完全正義」という理論を突き詰めると、ものごとを評価する言葉の大半が消失してしまう、そのことについて考えるべきだと思う。

もちろん、創作者や編集者の中には「そんなものなくなたっていい、読者アンケートと売り上げランキングだけあればいい」と思う人もいるかもしれないけど、
やっぱりそこに何の「言葉」も介在しないというのは、私は必ずしも健全ではないと思うんですね。

で、そこを突破しようとしたのがまず「オタク」に一種のナビ、ソムリエ的価値観を付与したタイプのオタク論であり、
もうひとつは「機能美」を「データの組み合わせの妙」に特化して評価するという「データベース化」概念だとも言えるんですが。
「そもそも作品評価の言葉なんて必要ないんですよ」って「言葉」で語る、というのは、どこか矛盾があるし、どこか自嘲的なカッコ悪さを感じてしまうんですよね。

私みたいな人間が少数派であることは、もうずいぶん前からわかっているんだから、そこをどうひかえめながらも保持していくか、っていう。

倉科遼の人気、売り上げの前では、通常のほとんどの「言葉」が消失する、その重さが問題なんですよ。
しかも、それは「キン肉マン」やたとえば「サザエさん」の前で言葉が消失する、そのこととは意味あいが違う。
それより、ずっと重いんですよ。

追記

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