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【映画】・「ランボー 最後の戦場」

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監督・脚本・主演:シルベスタ・スタローン

タイの田舎で、蛇を取っては売って暮らしているジョン・ランボー。そこに、ボランティア団体の女性が現れる。軍事政権下で陰惨な状況が続いているミャンマーに、医療品を届けたいというのだ。
最初は「そんなことをしても何も変わらない」と思うランボーだが、しぶしぶ彼らを送り届けることに。
しかし、サラたちは軍に拉致されてしまう。傭兵たちと彼らを救出するために目的地に向かうランボーだったが……。

これはねえ……今のところ、私の中では今年のベストワン。と言わざるを得ない。

このエントリの後半部分って、実は本作が念頭にあって書いたことだったんですよね。

本作が、「ミャンマー軍事政権下の人々の惨状を知ってもらいたい」という意図で残酷描写を行っていることはひとまず、理解できるんですよ。
しかし、同時に、本作で残虐描写を観ることは、確実に快楽なんです。そう言わざるを得ない。

それは、「ランボー」というエンターテインメント作品とコミで、という意味なんだけれども。

・その1
「戦争の悲惨さをわかってもらいたい」という理由でつくられた、「エンターテインメントではない作品」というのはいくつもあると思います。
で、そういうのは「悲惨さ」を訴えるのが目的だから、まったく救いが無い。あるいは、かたちだけの救いしか無い。

自分は、子供の頃からそういう作品について、ずっと考えてきました。
学校の反戦教育とかね。

で、少なくとも1970年代の、小学校での反戦教育というのは「子供に恐怖でトラウマを植え付ける」という部分が濃厚だったと思います。
それでいいんだ、トラウマになっていいんだ、反戦のためなら、という考え方もあるでしょう。

しかし、ではなぜ、劇画誌やホラー映画の残酷描写を観てはいけないのか? というのが、子供の頃の、私の最大の疑問のひとつでした。
世の反戦を目的とした作品が、まさか「トラウマを植えつける」ことを第一義とするならば、それはショック描写が売りものの娯楽作品といったいどこが違うのか?
もしかして、違わないのではないか? というのが、子供だった私なりの、スリリングな問題提議だったわけです。

逆に言えば、私はショック描写を主眼として、なおかつエンターテインメントをうたっていない、マジメな反戦作品については、正直、あまり価値を置いていないと言ってしまっていいと思います。

ショックや恐怖だけを与える作品で「戦争や残虐行為はいけない」と誓わされたとしても、「娯楽仕様」な残虐作品を摂取することによって、そのショックは消えてしまうかもしれない。

私は「戦争」とか、あるいは公害でも差別でもいいけれども、そういうものに対して子供にただショックを与えていいものではないと思っているし、それはある程度大人になってからでもそうです。
「火は熱い」とか「遊泳禁止の場所で泳いではいけない」といった単純なメッセージとは、わけが違うと思うんですよね(まあ、「ランボー 最後の戦場」は子供は観られないのでこの際、ちょっと話がズレますけれども)。

しかし、そういう「残酷」というイメージの享受は、常に恐怖と背中合わせに快楽も持ち合わせています。
そのあやういバランスをどうするか? というのは、実にむずかしい問題だと言えます。

では本作「ランボー 最後の戦場」はどうか。

・その2
はっきり言って、徹頭徹尾残虐描写が続きます。こういうのが苦手で耐えられない人もいると思うので注意が必要です。

しかし、話の本筋としては、実に甘美な、70年代的な勧善懲悪感がつらぬかれています。
「70年代的な勧善懲悪感」というのは、私が勝手に定義づけすれば、「それまでの正義を否定しつつも、一回転してやはり自分の正義を信じて生きていくほかない」というほどの意味です。
「遠山の金さん」を否定した後の「必殺シリーズ」みたいな流れだと思っていただければいいでしょうか。

ここで急いでつけくわえたいのは、だからと言って本作が「世界の警察としての強いアメリカ」を志向しているわけではない、ということです。そういう意味での勧善懲悪ではない。

本作において、私は「ランボー」というのはアメリカという国とは関係ない、「鬼神」のような存在だと思っています(というか、もともと「ランボー」はそういう存在だったはずです。アメリカの軍隊がつくり出した、制御できない怪物というような意味で)。

ランボーは自覚しています。戦っても何も変わらないと。しかし、それでも戦わざるを得ない。そして、戦った後も虚しさしか残らない……これは70年代に多用されたパターンです。
というか、本作におけるランボーは、ベトナム戦争以降、アメリカから見捨てられてきて、都合のいいときだけ利用されてきた一作目の「ランボー」という男と超時間的に地続きになっています。

お話もものすごく単純。そういう意味では「70年代的な予定調和を持った映画」だということは、ひとまずできます。

・その3
しかし、では単なる「過去のシリーズの自己模倣」かというと、印象としてはぜんぜん違います。その最大の違いは、単純に言ってその残虐描写です。それが作品全体から浮き上がって、自己主張しています。

たとえば「ランボー2 怒りの脱出」と比べると、過去のアメコミ作品と、トッド・マクファーレンとかフランク・ミラーくらいの違いがあります。超・劇画の世界に迷い込んだスーパーヒーローが、本作の中でのランボーという男です。

そして、個人的にはこここそ重要なんですが、
本作が過去のシリーズと同じように(厳密に言えば違いますが大雑把に言って)純粋エンターテインメントの構造を持っているからこそ、本作の残虐描写が重要だと思うわけです。

すなわち、本作における残虐描写は両義的だからです。

「観客にイヤな思いをさせるのも残虐描写」で、「観客に最後にカタルシスをもたらすランボーの戦いも、残虐描写」なんです。

ひとつの映画で、嫌悪する部分と熱狂する部分が、背中合わせでまったく同じなんです。

これはスーパーヒーローものとしては、ものすごく刺激的なことです。

これがホラー映画であったら、その残虐描写は一義的な意味しか持ちません。すなわち「観客に恐怖を与える」ということです。

しかし、本作は仮にもエンターテインメントで、しかも「ランボー」というスーパーソルジャーが主人公の勧善懲悪モノです。

それゆえに、残虐描写は「快楽/恐怖、嫌悪感」、「正義/悪」という両義的な意味を持ちます。

本作がバリバリの社会派として撮られていての残虐描写だったら、また別の感慨が浮かんだでしょう。

製作サイドの意図はわかりませんが、本作においての残虐描写は大枠で「エンターテインメント」でまとめられているからこそ、強烈な問題提議をしていると思います(まあ、そういう作品が過去にあったかもしれませんが)。

あるいは、プロットこそしごく単純ですが、その残虐描写ゆえに、本作が文芸的な意味合いをもたたえていると言うこともできる。

そもそも「ランボー」自体が、一作目では一種のアンチ・ヒーローでありつつヒーロー視されてきたという屈折した受け取られ方をされている。
そのひとつの帰結が本作なのかな、という気はしていますね。

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