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【雑記】・「何かがすでに死んでいる件について」

実は、新書を買ったけどまだ読んでないんですよ。
でもネットを巡回すると、その反応についてイヤでも目にしちゃって。

あっ、でもたった今、書こうと思っていることを書いているブログを読んじゃったなあ。
……書く気なくなった(笑)。

まあ、読んでもいない私が……ってのもあるけど、
読んだら読んだで面倒なことになりそうな気が……(笑)。
でも、ちゃんと普通の本屋で買いましたからね。本は。
まあ、ストレス解消にダラダラ書こうと思いますよ。

・その1
まず「勝手に殺すな、おれたちは死んでない」っていう意見に対して。
「勝手に落として、勝手に下げただろう」っていう意見があるけど、著者は現状までもっとも強力なスポークスマンの一人だったのは間違いないわけで、いなかったらオタクの歴史はたぶん(悪い方向に、生きにくい方向に)確実に変わってましたよ。
だから、上げてから下げた、その期間に世評は変革されているわけだから、「おれたちはあんたとは関係ないところで生きてきた、これからも生きていくだろう」って物言いは、ちょっと上から目線すぎるような気がする。

アキバのオタク解放デモとセットで、否定的な意見をどこかで読んだけど、確かにもともとオタクは対世間に隠れて生きるものだったかもしれない。だけれども、少なくとも80年代にオタクは「対世間への啓蒙」っていうのを、懐にしのばせたドスのように、最後の夢として持っていたんじゃないかという気はしますよ。

より正確に言えば「持っている人もいただろう」と。

オタク内に「対世間に対して啓蒙すべき」というのと「そんなことする必要ない」という、両極端な意見はもともと内在していたわけだから、そこはおさえておかないといけないと思いますね。

極論を言えば、「どう世間に認めさせるか」ということに関しては、究極的には著作を出すとか講演をするとかと、デモとは同じなわけで。方法が違うだけで。

次に、「オタクの歴史を捏造している! 対世間への影響力が心配」という意見ですが、
矛盾したことを書くようですが、対世間へのものすっごい影響力というのは、今回そんなにないと思います。
「対世間」っつっても、オタクのオの字も知らない一般人じゃなくて、たとえばちょっとサブカル寄りの雑誌は読むけどオタクには興味ない、っていう層に対しても、ものすごく大きな誤解を植え付けることはないだろうと思ってます。

そもそも個人的にはネットで見るかぎり、大塚英志の「おたくの精神史」が正史として受け取られていることに違和感があるので、問題はそこからですよ。
「おたくの精神史」は、個人的には完全に同意するわけではないけどまあ大雑把にはそうだろうなという感じで、世間への影響力も小さくはないが決定的ではなかった。今回もそういう感じになると思います。

・その2
それと「萌え」きっかけでオタクは死んだ、という意見に対しては同意も反論も両方読みましたが、
もともと著者は十代、二十代の頃からすでに二次元美少女にはまったく、何の興味もなかった人でしょう。
それが「萌えがわからない」と言うのは当然ですよ。

「萌え」議論を見ていてときおりイライラするのは、
「萌えでオタクは死んだ」って言う人が、多少なりとも二次元美少女に興味があるというならわかるけど、興味のない人が「萌えはわからない」って言って、興味のある人が「萌えはわかる」って言うの、何なのそれ? 議論にもなっていないと思います。

「萌え」議論でもうひとつイライラするのは、
何度も書いているけど森雪だってラムちゃんだってリアルタイムですごい人気あったわけですよ。でも、森雪やマチルダさんやラムちゃんを後から知った世代が遡行して「あれも萌えだった」って言うか、あるいは「あれは萌えじゃなかった」って言う意見はよく読むけど、
それらをリアルタイムで好きだった世代が、後続の「萌え」概念をどう思って、メーテルや霧賀魔子を再認識していったか、という意見はほとんど見ないんですよね。

「萌え」概念がここまで語られる以前に二次元美少女を好きだった人たちが「萌え」概念を受け入れないと、オタク内部でもここまで広まらなかっただろうということは確実にあると思うんですが、まあそこら辺はあまり言及されないですね。

で、それってどういうことかというと、「萌え以前」も「以後」も、けっきょく世代論に帰結してしまった、ということです。それに尽きますね。

たぶん、著者は、自分周辺の、せいぜい50人か100人くらいのエリート的なオタク、その50人か100人が共有してきた感覚をどう保持し、また増殖させていくか、ということにある時期まで骨を折っていて、
実はそれ以外は関係ないっちゃないわけですよ。
時代状況とガッチリリンクした連帯感だから、それは普遍性があるようでない、ないようであるという感覚で。

当然、最初から理論化もできないし客観化にも限界がある。

それは「オタク学入門」が出た、その瞬間からそうだったわけだから。

今回批判する側の多くも、やっぱり自分の世代感で言っているから、議論はかぎりなく平行線になる可能性はあります。

・その3
あ、いちおう説明しておくと、「世代」という言葉を使ったのは、現代では強固な連帯感を持つには、せいぜい上三年、下三年くらいの年齢差の人たちとが限界で、「いちいち言葉を客観化しなくてもわかりあえる間柄」というと、おのずと特定の「世代」になってしまうだろう、というほどの意味です。

で、著者がそういう「連帯感」を問題にしたというのはけっこう重要だと私は思っています。

あ、今回の著作でそうかどうかはわからないけど、でも今までの仕事を見ているとそうだから。

80年代後半的なというか、経済大国日本的なというか、一億総中流意識時代に、個が平均化されるなかで、どのようなサベツ(「差別」ほど深刻ではないのでそう表記します)が存在し、どのような精神面での連帯があり得たか、ということが「オタク論」では裏テーマとしてあった。

だから、中流意識が崩壊したら、中流意識を土台としたうえで成立していたサベツも被サベツも連帯も、意味が希薄化します。したがって、まあそういう意味では死んだと言えば死んだのかなという側面はある。

それと、「オタクの問題意識は非モテとか恋愛至上主義とかそっちに移行した」っていう意見も読んだ。
これもまあそのとおりだと思いますが、じゃあなんで80年代~90年代にはそっちは顕在化しなかったのか、というのを探っていくと面白いと思います。
もちろん、20年以上前は今よりもずっと強固に「恋愛して結婚しなければならない」というイメージが支配していたということはあるとは思いますがね。

ただ、もうちょっと個人の能力を信頼していた印象はあるんですよね。第一世代のオタクというのは。

あるいは逆に、どんどん「弱者」が問題になっているとも言えます。もともと中産階級があって可能なオタク趣味だったから、経済的には強者だったわけです。それが恋愛弱者の問題になって、もしかしたら現在はニートとか残業代がぜんぜん出ないとか、就職口がないとか、もっとリアルな方向に問題意識が移行しているかもしれない。

あと、古参オタクの底流には、70年代に流行った社会主義とか共産主義的思想、あるいは強くなりすぎた人権意識に対する反動として、もっと個々人の能力とか強さとかを打ち出していった方がいいんじゃないか、ものすっごく大雑把に言うとニーチェ思想みたいな、「一人ひとりががんばって強く生きていきなさいよ」っていう、そういう考えがありますね。

でも同時に、オタクっていう概念は大乗仏教的なというか、「いっさいが救われる」という考えも入ってて、至るところで自力救済と「万民救われるべし」っていう考えの対立が露呈するというね。そういう部分があると思いますね。

「連帯」に話を戻すと、今後世の中がどんどん悪くなって、もっと経済的、社会的問題によって連帯していくようになるのか、それとも違うのかはわかりませんけども、問題にはなっていくと思いますよ。

それを潜在的に察知していたのがオタクで、自明のこととしていたのがヤンキーだと思います。

というわけで、終わり。

追記

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