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【雑記】・「八つ当たり」

ものすごい嫌味なヤツだよね、この人(笑)。
なんか「マッチョ/ウィンプ」って対立項を最近(とくにはてなダイアリーで)目にするけど、最初に言い出したのはこの人? 違うの?(別に確かめようとも思わない)
でも、少なくともマッチョはサスペンダーしねぇよな。

その1
この人(通称:サスペンダー)は、断片的にエントリごとでしか、どこかにリンクされているテキストしか読んでないけど、

別にたいしたこと言ってないよね。

昔、「ビッグ・トゥモロウ」という自己啓発雑誌があったけど、あれとそう内容は違ってない。
バブル前~バブル期に中小企業の社長が言ったことと変わってないね。

ただし、バブル前後に中小企業の社長の言っていたことというのは、ボキャのレベルで、ものすごくおおざっぱに言えばアニメ観てる人とかラノベとか読んでる人には届かなかった。彼らが相手をしていたのは、あくまでもアッパー系のサラリーマンから「腕一本で稼ぎたい」と思っている職人志向の元ヤンキーくらいまでで。

このサスペンダー・マンは、それをうまい具合に、哲学書とか新書とかを読んでいる人たちにも届くように書いている。それが違いと言えば違いか。
より具体的に言えば東浩紀や宮台真司を読んでいる人も、このサスペンダーのブログは読んでるかもしれないな。

しかし、マッチョ/ウィンプという対立項に抗する、(もちろん全部とは言わないが)ウィンプ側のブロガーの劣勢具合にはかなり懸念する。「それはマッチョの方が正しいけどさあ……」という枕から始まっているような気がする。

コイツに勝つ方法はさあ、当面、無視すればいいんだよ。
だいたい、本当のマッチョがちまちまブログなんか書いてるわけ、ないっつの。
根本敬や吉田豪がなぜ必要かっていうと、真のマッチョは言葉を発しないから、あるいは一般人が理解できるようなことは言わないから、審神者(さにわ)となる人間が必要だったわけじゃん。

そもそもがマッチョ/ウィンプっていう対立項の設定自体が一種の詐術なわけなんだけども。まあ、対立項の設定なんて、ぜんぶ詐術とも言えるんだけどね。

その2
もうひとつ思うのは、マッチョ/ウィンプという対立項に「痛いところをつかれた」と思っている人が意外と多いということはさ、90年代後半に一度シャッフルされたかに思われた「体育会系/文化系」とか「オタク/非オタク」っていう対立項が、再びイメージの上でシャッフルされ始めたんだな、ということ。
これは「モテ/非モテ」という対立項が出てきたこととも関連してると思うけど。

まあ、「ウィンプ」という項目立ては「オタク」イメージとは切り離せないと思うので「オタク」という言葉を出しますが、「オタク論」というのは、もともと根本的には、「弱い者」の可視化、復権という要素を持っていて、何度も敗北してるわけです。

そもそも80年代初頭に「新人類」という項目立てで打って出たのが「おたく的な人」を激しく切り分けることで内ゲバ的なものが生じ、
80年代後半には宮崎事件が起こって「おたく」イメージ自体が最悪のものになり、
そして90年代半ばには、岡田斗司夫のオタク感がイメージとしては支配する。岡田さんはプロデューサーでもあるので、そこは実際的というか、マッチョ的な要素が入っての「オタク」イメージの再出発だった。

で、浸透と拡散してきて、現在またイメージの上での再編成が起こっているな、という印象。

でもさあ、けっきょく人間の「弱さ」ってのはどこまでいっても残るんですよ。何をどう再編成しても、残る。
それが消えてしまったら、少なくとも「情緒」とか「感情」を、行動以外の面で表現する意味がなくなってしまう、と自分は思っています。
それに、人間は地上最強になれるのは地球で一人しかいないんだから、範馬勇次郎以外は全員、弱い面を持っているはず。

私個人は、文字情報で「弱さをなくせ」っていう情緒的な面に言及するのは、一種の倒錯だとすら思う。

本当にマッチョな人間なら行動で示すし、ちまちま文章書いたりしないですよ。
逆に言えば、文章で人を説得しようとすること自体が「弱い行動」だということは言えますね。

その3
もうひとつ感じるのは、まずそういう「マッチョイメージ」の再編成が起こっているとして、逆に「知」というか「書斎派」的なイメージの再編成も起こっている、という感じ。
それはサスペンダーとは関係なくね。

どうういうことかというと、「オタク論」っていうのは「知とは何か?」という問い直しの面があるんだけど、基本的には世代論から抜けられないんです。それは、歴史の流れから言えば全共闘世代直後の人たちがアイデンティティ確認のために構築したものだから。
戦中、戦後、全共闘、オタク第一世代という流れにおいて、戦中、戦後、全共闘世代にどう対抗していくかという中から生まれてきた「論」だから。
その中には当然「弱さとは何か?」という問いも含まれていたし、「青白き秀才」イメージをシャッフルすることから始まってもいる。

で、過去の、あるいは自分たちより上の世代の「強いことこそ正義」と思っている人たちに抗する言葉は構築されたけど、同世代や下の世代の「強いことを正義とする理屈」に対しては、オタク論というのは論としては弱いかもしれない。あるいは、一般的なマッチョ論に溶け込んでしまう面もある。

だから「知とは何か?」という問い直しの、さらに問い直しと、「強さ/弱さ」の再編成ということが、若い「書斎派」の中でもまた起こるわけですよ。

でも、そんなのどう考えたって、どんなによりわけたって「弱さ」とか「弱い者」って残るに決まってるんだよ。
1000人の集団を強い者と弱い者に分けて、そこからいちばん弱い100人を抽出したって、その中でも強いやつと弱いやつが分かれちゃうんだから。

私が言いたいのは、マッチョ/ウィンプの対立だとか、あるいはオタク論の問い直しでもいいけど、そういうものは過去の繰り返しだから。
ミニスカートとロングスカートどっちが流行るかの繰り返しみたいなもんだから、本質をみきわめてほしいということですね。

それらの諸問題に対する考察は、少なくとも60年代後半あたりからはほとんど似たような問題提議と仮説の提示が繰り返されている。なぜなら、大枠で観てそんなに世の中の変化がないから。江戸時代から明治維新とか、太平洋戦争敗戦とか、それくらいの衝撃がないとすごく変わった考えって、出てこないですよ。

そうそう、ひとつだけ言えるのは、70年代中盤に左翼的な考えとか運動論(と、あるいはそれに対応する右翼的な考えと運動論)が後退したことが大きいと言えば大きい。
というのは、「理論がある」とか「言葉で対応する」、そして「独自の大きな世界観がある」という意味で、精神的な弱者も、社会的な弱者も巻き込んでいこうとする試みがあったから。
まあ、けっきょくは失敗したんだけど、あらゆるものを包含してやろう、という考えが、宗教以外にあったというのは覚えておいた方がいいかもしれない。

今はぜんぶ感情論というか情緒的な吐露と、問題解決のための方法論が分離してしまっているでしょう。
情緒と方法が完全に分離して動けるようには人間できてないから、そこで論理的になろうとすればするほど、立ち止まってしまう面もあるはず。
それを、強い人は「自己責任」のひとことで片付けようとするわけでしょ。そんなの、何も言ってないのと同じことでしょう。「我慢しろ」って言っているだけだからね。

むろん、今後世界をすべて包含できるような理論というかものの考え方は、出てこないとは思う。むしろ個別具体的に、現場現場で問題を解決していこうという方が主流なんでしょ?

でも、自分はそれだけではぜったいゆがんでいると思うからね。オウム事件の直前のときにそうだったけど、当時、オウム的なオカルト志向なんて、まともな人間ならだれも相手にしていなかったわけですよ。「ありえない」で終わりだった。
しかし、歴史に残るほどの大事件が引き起こされてしまった。その辺は、やっぱり「まともな人間」たちが、見たくないものを見ないから起こった面もあるんじゃないかと思う。

基本的にマッチョというのは見えるものも不可視化しようとする態度ですよ。まあそれが、突き進んでいくには強さになるんだけど。
逆に、ないものまで見ようとする傾向があるのがオカルトだったり、まあ朝日・TBS的な容共思想ということになるかもしれんのだけどね。

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