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【アニメ映画】・「太陽の王子ホルスの大冒険」再見

この間、映画館で上映していたのでひさしぶりに観る。

個人的経験から言って、サイトが荒れるのは内容如何より「有名な作品を取り上げている」場合が多い。
まあ、有名作だとみんなその感想を読むからね。自分より詳しい人も、詳しくない人も。

だから、本当はこんな超有名作品、しかも今頃さあ、感想書いたりなんて滅多にしないんだけど、

人の言うこと気にしてたら何も書けないから、

十数年ぶりに再見した感想を描いてみようと思う。

なお、「そんなこと、すでにだれかが指摘しているよ」なんて言葉にも、私は何らの痛痒も感じないのである。

・その1
本作は、あらためて観ても超人的傑作だと思う。いや知らないよ、過去にオリジナルとなるもっとすばらしい作品があるかもしれない。アニメのことなんかよく知らないもん、私。
でも、そういう作品があったとしてもやっぱり傑作だと思うな。

というのは、本作が「ヒーローの孤高のヒーロー性と、民衆の団結」を同時に描いた作品だからである。
物語の序盤、とある村に流れ着いたホルスは、村人が巨大なおばけカマスに苦しめられていることを知る。
そのとき、かますによって夫を殺された女性は、かますに夫が殺されたことに対し、「日々の生活があるんだから、命を賭けるならみんなで!!」と言う。
でも、ホルスはこっそりおばけかますをやっつけてしまう。

村人たちが悩み苦しんでいた問題を、一瞬で解決してしまうのである。
これが、ヒーロー性。

一方で、ホルスはヒルダの陰謀により、村人から迫害されてしまう。「迷いの森」に入り込んだホルスは精神的に苦しみ続けるが、人々の「団結」こそが悪魔を打ち破るものだと悟る。
これが「民衆の団結」の部分。

ホルスはせいぜいアジテーターくらいの位置におさまっていて、「リーダー」という感じではない。
本作が巧妙なのは、村長や鍛冶屋のがんこじいさん、それに家や細かい仕事を守る女たちなど、その立場や役割によってリーダーシップが分散されているように描かれていること。
じゃあ、そういう社会だとホルスの影が薄くなくなるかというと、しっかりヒーローとして目立っている。
それがすごい。

・その2
もうひとつすごいのは、もう何十年も言われ続けているであろうヒロイン・ヒルダの心理描写。
だが再見してハタと気づいたのだが、ここで描かれるヒルダの葛藤のようなものは、現在放映されているアニメなどでもわりとよく描かれるのである。

というか、もっとはっきり言ってしまうと、ヒルダの葛藤をもっとうだうだうだうだうだうだ描いて、しかも救いをなくさせてしまうと、90年代以降のアニメになるような気がする。
私から観ると、「平成ライダー」のおもだったものはそういうふうに見えるし。特撮だけど。

逆に言えば、現代はヒーローとしての「ホルス」の不在の大きさを感じる。
日本のアニメやマンガは、たぶん40年間、「ヒルダの葛藤」のようなものを描くことに関しては腕を磨き続けてきたが、「ホルス」側に関してはその描き方をほとんど掘り下げることがなかったのではないか。

いや、立派にヒーローがヒーローしていた時代は「ホルス」製作以降も確かにあるんだけどね。しかし「ホルス」がつくられた60年代と現代とを一気につないでしまうと、そのようにしか観えなくなってしまう。

本作は、「左翼的」と嫌がられることもあるが、「ヒーローと民衆の関係」をきちんと描いたことは評価せざるを得ない。アメリカなどと違って、日本のヒーロー像にはノーブレス・オブリージュという発想があまりないからだ。
エヴァのシンジくんなどがその「ヒーロー性を拒否した主人公」としてよく象徴的に取り上げられるが、それよりもっと前から、「一般市民を守ることを強く意識したヒーロー」というのは日本では案外少ないのである。

鉄腕アトムですら、手塚治虫自身からは物足りないと思われていたフシがあるし。

「ノーブレスオブリージュ」という考え方がないと、ヒーローものというのはどんどん弱体化していく、というのが私の持論である。
なにしろ、ヒーローの存在価値である「民衆」を視野に入れていないのだとすれば、グダグダになるのは当たり前なのだ。

そういう意味でも、本作を「ヒルダの物語」としてではなく(そういう観点は、むしろよくあったと思うので)「ホルスの物語」として考えることは、現在のヒーローものを考える上でも決して無駄ではないだろう。

・その3
ヒルダを「村になじめない存在」として描いたのも、ポイントが高い。
つくり手が意識したかどうかわからないが、実はこの辺はジェンダーの問題になっている気がする。というのは、同じ孤独な存在でも、ホルスの方はけっこう簡単に村人になじんでいるからである。
それは、ホルスが「村人が男手として必要な仕事」がたぶんひととおりこなせるからである。この辺うがちすぎだろうか?
対するに、ヒルダは「歌しか歌えない」。しかも、彼女の「歌」は、村の日々の生活には直接関係がない。

婚礼の儀式のシーンで、ヒルダは花嫁のドレスに刺繍をすることを勧められるが、彼女は刺繍をする技術を持っていない。「村の女性」として生きるすべを、たぶん持っていないのである。
むろんラストはヒルダは悪魔・グルンワルドの手から逃れてハッピーエンドだが、ホルスほど、果たしてヒルダが村になじんでいけるかどうかは最後までわからない。まあ、なじんでいけるんだろうけどね。

・その4
たぶんヒルダは贖罪の気持ちに縛られている。しかし、ホルスはそこがまったく理解できていないっぽいところも面白い。ヒルダにとっては、常に前向きなホルスは偽善的な人間にすら見えたかもしれない。しかし、そこをホルスがひるまず押し通すから本作は成立している。

私の最近のいちばんの興味の一つは、作品内で「ベタだ、ベタだと思われている考え方がなぜ出てきたのか」だ。たとえば70年代以降だったら、ヒルダの心情にもう少しホルスがつき合っただろう。
それはいいが、それから「善をなすことはすべて偽善」という、最近のアニメやマンガに多い極論まではあと一歩なのである。

アニメの「デビルマン」を思い出してもらいたい。デビルマンは、人類を守りたいのではなく、牧村美樹を守りたいから不動明の身体に入っている。
あるいはアニメの「キャプテン・ハーロック」も、地球人が守りたいのではなく、「マユ」という少女を守るために戦っている。
「ホルス」では、出てくるのが「村」という小規模な集団だから、「個」と「全体」の把握が無理なく考え方として調和している。

それが、70年代、80年代とどんどん「個」の方の比重が増していく。「デビルマン」、「キャプテンハーロック」のあたりは、まだ「個を守る」という「言いわけ」によって他の大勢の人々も守る、という建前が成立しえた。
急に思い出したが「バスタード!」というマンガも、かつて悪行三昧だったダークシュナイダーが、「ヨーコ」という女の子にだけは頭が上がらないというところから出発する話だったし。

で、90年代まではかろうじて成立していたヒーロー像も、「エヴァ」で完全に崩壊する。
シンジには、自分が動かないことによってだれにどんな迷惑がかかるのかがよく理解できていないし、なんでだかわからないがゲンドウはその辺の情に訴えることはあまりしなかったようである。

強調されるのは「シンジという主人公は交換可能かもしれない」ということや、「綾波レイ」という一個人の動向のみが、シンジの頭をほとんど支配しているということである。
(もちろん、友人がやられそうになっているところを助けるとか、要所要所でおとしどころはあるが、その描き方は過去の似たような作品に比べてその辺の強調され具合が大幅に薄くなっている)。

・その5
どんどんホルスと話がそれていってしまった。現状、アニメやマンガでかろうじて「ヒーロー性」として残っているのは「プロフェッショナルとしての矜持」だろう。
しかし、プロフェッショナルとは自分の業務を完璧に遂行するものなので、逆に言えば自分の業務範囲外のことはやらなくてもいいことになってしまう。

それは、人間としては正しいが、少なくともスーパーヒーローではない。

もうホルスみたいなヒーローは、新しいかたちで現れないんですかね?
いや、現れるとは思うよ。
ヒルダみたいなキャラは、山ほど出てきたし、増えたんだから。

今度はホルスの番だ。

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