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【雑記】・内輪の問題

ふぬけ共和国blog: 【お笑い】・「東京から見たバッファローは……」(昨日の風はどんなのだっけ?)
「全部違う」と書かれてしまったー。やらかしてしまったでしょうか?

(引用開始)
まず大阪の人間において、「東京に対しての大阪のマイナー意識」というのは、実はほとんど無い。
(引用終わり)

(引用開始)
だから僕はマイナーではなく、リトルメジャーというのが、本質だと思います。
(引用終わり)

(引用開始)
バッファロー吾郎一座に限らず、いま大阪で「内輪」ネタをやっている人たちは「内輪受け」ではなく、「内輪向け」になっているという所を、誤解されると僕は前提が間違い過ぎているように思います。
(引用終わり)

この辺は本当、勉強になりますよ。大阪の状況とか空気感は、教えてもらわないとわからないんで。


(引用開始)
いまの大阪の内向きのベクトルというのは、90年代前半から大阪のお笑い好きにある「アンチとんねるず」の流れなのは間違いないですよ、
(引用終わり)

うーんと、「アンチとんねるず」というのと、「内輪」の問題というのはちょっと切り離して考えたいんですよね。

(引用開始)
新田さんは見ていないかもしれないけど、ネタとは関係ない所で売れた的なニュアンスを書かれるのも、僕は違うなと思うし、大きな誤解の元になりかねない話のように思えます。
(引用終わり)

ナイナイが漫才でいくつか賞をもらっているというのも知っているし、そういう信用があってこそのもろもろの抜擢だとは思うんですよ。それはそうだとは思います。
ただ、東京では普通にテレビっ子を自認していた私も、ナイナイのネタを観ることはなかった。
私が観たことがない、ということは、東京および全国ネット的にナイナイを認識した人の決して少なくない人数は、ネタを観たことがなかったと思います。

あくまでも認識の問題であって、ナイナイの実績とはまた別の話です。

たとえば、とんねるずの単体のコントを、「みなさんのおかげです」の視聴者の中で、観たことがないという人もけっこういたかもしれない。そういうような話です。
タモリのアングラ芸を、現在の「いいとも」の視聴者が観ていないかもしれないというようなね。

他にも「ガレッジセール」や「雨上がり決死隊」も、ネタの面白さでここまで来たという感じは、あくまで印象としては、無いということです。
その真逆が、タカトシなんですよ自分の中では。バラエティでもフリートークでも、彼らは漫才をやっているような雰囲気を持っているので。

(引用開始)
とりあえず僕は元の記事で、新田さんが何を言いたいのかも、あんまり良く伝わっていないんですが、
(引用終わり)

ナイナイが大阪の他の芸人にいろいろと批判された理由というのが、漫才などのネタ込みのことなのか、それともそうではなくてタレントとして「急に売れやがって」ということなのか、そこは私の知識不足ですので、素直に知りたい。

ただ、あくまでも私個人の認識としては、ナイナイが売れたっていうのは、関東の視聴者としては、「あ、ネタとタレント性って関係ないんだな」というふうに思わせた最初のコンビなんじゃないかということです。
違うかもしれませんけど。

うーん、ナイナイのことはほんとわかんないんで、「それは違うよ」という部分があるなら素直に認めますよ。

それと、とんねるずの「内輪受け」について。

とんねるずというのは、師匠らしき人もいないし、「事務所」的なタテのつながりも(お笑い芸人という意味で)ハッキリしない、最近売れてきた中堅、若手芸人とはちょっと違う立ち位置にいる人たちです。

彼らが何を背景にしてきたかというと、少なくとも「オールナイトフジ」の直後くらいまでは「秋元康」であり「ギョーカイ」という幻想ですよね。

で、何で「ギョーカイ」という幻想がまかり通ったかというと、これは関東のテレビに出たという以外の理由が見出せない。

変な前提ですが、とんねるずが華丸・大吉みたいに「九州」とか、なんかローカル的なものを背負って出てきたらまったく違う展開になっていたでしょう。

で、彼らの言う「ギョーカイ」というのは、好意的に観れば(あくまでテレビで観ていた雰囲気としては)旧・芸能界に対する秋元康を筆頭にした新勢力、ということになる。

「夕やけニャンニャン」のプロデューサーが、どこかで「音楽というのは順位を付けることで楽しむものではないはず。おニャン子を大量にベストテン入りさせれば、順位が形骸化してしまうのでそれでいいと思った」ということを言っていた。
これは本心なのか、結果的にそうなったことについて後付けで言っているのかはわかりませんけど、とんねるずの関係者が何らかの革新性を意識していたという面は、あるとは思います。

ですが、逆に「ギョーカイ」というものをバブル崩壊あたりまで、「新しい権威」にしたてあげたことも間違いないでしょう。
とんねるずが雑談の中にプロデューサーやディレクターの名前を出すとき、それはあくまでも「ギョーカイ」という(視聴者にとっては架空の)世界の中では有名だからこそであり、視聴者がそれをありがたがって拝聴するという雰囲気がありましたよ。

普通にフリートークして、普通に知り合いの名前が出てきてしまうというのとは、少し違っていた。

この点に関しては、秋元康が「とんねるずは上から見下ろす笑いなんだ」って言っていましたし、秋元康が、自分たちのやっていることを「新しい権威」にしようとしたことは間違いないと思います。

実際、80年代のNHKで、「若者言葉を研究している」という大学生が出てきて、彼の言う「若者言葉」がすべて「オールナイトフジ」などのとんねるず関係の番組から出てきた言葉だったのには驚きあきれたこともあります。
当時の若者にとっては、とんねるずの業界言葉というのはある種の権威を持っていた。

そして、その権威の根拠は、とくに何もなかった。あるとしたら、それは「中央で、メジャーシーンで行われていることらしいから」ということだけです。

むろん、これはとんねるずや秋元康だけの功罪ではなく、
たとえば「ひょうきん族」でディレクターがやたらと前に出てきたり、というところあたりから始まっている。

80年代全体が内輪受けの時代だった、とも取れます。

だから、とんねるずの内輪受けがアリで、他の人がナシというのは、私にとっては何か不公平感がある。
とくに、有名になりかけの頃のとんねるずもそんなことばっかりやってましたからね。「とんねるず」という看板で食っていける前の彼らも。
その辺どうなのよと思うんですけど。

補足

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