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【萌え談義・その5】・「萌えとその歴史性」

ササキバラ・ゴウのサイト(2008.2.12)より。
(以下引用)
>>ただ、最近よく目につくボーイズ・ラブの評論などを読むと、歴史感覚の希薄なものが多くて、そんなことでいいのか?と、おせっかいにも思ってしまいます。これは数年前の「萌え」ブームの時と同じことで、目の前にある自分の興味の対象を、もっともらしく語ることに熱を上げるばかりで、その歴史的背景を見ることは、むしろ嫌がる傾向が強い。このへんは、男も女も同じ傾向を感じます。
(引用終わり)

ボーイズラブについてはまったくと言っていいほど門外漢なので、その評論に関して歴史的にどう記述されているのかわからないんですが、

こと「萌え」に関しては、「萌えを語る人は歴史的背景を見ることを嫌がる」というより、
「オタクを歴史的に積み重ねる『史観』として見たがらない人が、『萌え』にシンパシーを感じることが多い」ということが言えると思います。
ありゃ、けっきょくは同じことかな。

その1
つまり、オタク第一世代の人たちが「オタクの歴史」を語ったとき、オタク第一世代的なオタクの定義によるとオタクというのは知識の積み重ねですから、構造的にはよっぽどすごい調査能力と記憶力と、そして財力を持っていないかぎり、第一世代以下の世代というのは第一世代に勝てないということになってしまいます。

趣味に勝ちも負けもあるか、という意見があるかとも思いますが、ささいなところで「勝ち負け」を楽しむのも趣味の醍醐味ですからね。

しかも、個人的印象では「オタク的知識」というのは、後追い猛勉強をやってもどうしても付け焼刃の域をでないところがあり、そこが映画、音楽、活字SF、ミステリといったマニアとも違う点です。
「歴史認識」に「体験」が加味されているんですね。受容史ですから。

そこで、そうした価値観の積み重ねを一気にチャラにできるのが「萌え」という価値観として「再発見された」というのが私の考えです。
だから、「萌え」が再発見された段階で、それは歴史性とは切り離された言説によって語られることは必然性があったとすら思うんですよね。

感覚で語れるからこそ、あれだけ広まったという認識です。私は。

その2
それと、これも前に書いたか忘れましたが、「萌え」的な感覚というのはオタク第一世代から存在していましたが、それを評論家として前面に出して語る人がほとんどいなかったように思います。
私個人は「萌え」感覚と同義といってもいいと考える「80年代ロリコンブーム」のときにも、そのブームそのものがどこか冗談めいていたという複雑な事情があるからだとは思いますが(90年代の萌えブーム以上に)。

急逝された冨沢雅彦くらいではないでしょうか。「萌えブーム」以前に、当事者的な立場から「萌え」的なことを語っていたのは。
もちろん、大塚英志とかもいましたけれども。

で、その反動が一気に90年代後半から来た、という印象です。それまで、オタクとしてのヒエラルキーでは、アニメの技術論だとかメカだとかについて語れる人の方が上だったんじゃないか。

まあ単純にセクト化していたわけではないでしょうが、とにかくそれをチャラにするには「感性」とか「自分の感覚」だけを基準にしてものを言う世界が到来すればいい。
そうなれば、「萌えを感じられる当事者」がヘゲモニーを握れるという一種の価値の逆転が得られるということなのではないかと。そして、実際そういうフシも見られました。ほんの少し。

そういった感覚が、「萌えとそれに対する歴史認識」がなかなか結びつきにくい理由だと私は思っています。

前にも書きましたが「萌えブームは、オタク第三世代以降が、自分たちのアイデンティティ確認のために起こった」というふうに、私は解釈しています。

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