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【映画】・「グミ・チョコレート・パイン」

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監督・脚本:ケラリーノ・サンドロヴィッチ

大槻ケンヂ原作の青春小説の映画化。

2007年、38歳の中年男が会社をリストラされ、実家に帰ってくる。そこには転送されなかった彼への手紙が数通あった。
その手紙の中に、彼が高校時代に淡い恋心を抱いていた同級生の女性からの、二十数年ぶりの手紙が含まれており、しかも彼女は病気を苦に自殺していたのだった。
2007年と、そして時間をさかのぼって1986年の、彼と彼を取り巻く少年たちの、地味でやるせない青春を描く。

原作は、自分は「グミ編」しか読んでない。
「グミ編」に昔、感動しすぎて、そしてその後冷静になり、少し醒めた。
今回の映画は、ものすごい大傑作とは言いがたいが(理由は後述)、「若者が書く青春物語」にはない良さがあったことは確か。

その1
どこが「ものすごい大傑作とは言いがたい」かというと、高校時代の主人公の、女に飢えていて、好きな子がいて、でもどうしていいかわからない、そういう心情があまりにもクールに描かれすぎている点、これに尽きる。

たぶん、ケラは生涯を通じてそういう気持ちになったことがないんじゃないかと思う。

主人公が好きになる女の子は、映画マニアで、しかもジョン・カーペンターなどのホラー映画が大好きで、話が面白く、しかもかわいいということになっている。
最終的には「スコラ」で衝撃的ヌードを発表し、芸能界デビューする。

言ってみれば86年当時、「そんなのいるわけない」キャラクター造形である。確か大槻ケンヂの原作でも、ほぼ同じ人物造形だったと思う(原作では86年ではなく、もう少し前という設定)。
大槻ケンヂはそんなことは百も承知で、「東京に住む暗いサブカル少年のマドンナ」としてこの子をつくりあげ、動かしていることが小説においては理解できる。

ところが、映画版では演ずる黒川芽衣は確かにかわいいけれども、主人公との少年との関係の描き方に、観ていてひっかかりがない。

たとえば、少年が映画館で、女の子に自販機でウーロン茶を買ってやろうとするシーン。原作では、「このまま普通にウーロン茶を買ってあげれば、それで彼女との関係が断ち切られてしまう。しかし、ここでおしるこを間違えたフリをして買ったら、それがとっかかりとして自分が印象付けられるのではないか!?」
と、瞬時に考えるのである。

原作の、傑作シーンだ。
しかし、映画版ではサラリと流されてしまう。
他にも、高校生らしく少年がオナニーし続けるシーンや、お気に入りのエロ本(「GORO」がエロ本だとすればだが)を何度も観るシーンなどがあるが、どれも淡白で、何となく心に迫ってこない。

もしかして、ケラにはそういう意味での悶々とした時期がいっさい無かったのではないか……?
本作のヒロインの造形にも、とりたてて思うところはないのではないか……・?

どこかそう思えてきてしまうのである。

確か、ケラのバンド「有頂天」の曲でも、「好きな子に片思いして気持ちを伝えられない」みたいなタイプの曲はなかったと記憶するし。

その2
逆に、心に迫るシーンというのは、少年たちがクリエイターのタマゴとして立つことを決意したり、思い悩むシーンだ。
例をあげると、
友人の家を「秘密基地」的に使い、「タコハイ」を飲みながら難解なロックを聞くシーン。

主人公の少年が憧れの女の子への思いのたけを、バンドの歌詞にすべてぶつけて、意気揚々とノートに書いて持ってくる。
しかし、バンド仲間の、暗くて、気持ち悪くて、しかしギターはバカテクの少年の、情念むき出しのシュールな詞に、圧倒されてしまって自分の歌詞を書いたノートを、カバンから出すことすらできないシーン。

少年たちが「キャプテン・マンテル・ノーリターン」というノイズバンドでライブハウスデビューするときの、色とりどりの化粧をする盛り上がり。

そして、それが86年当時にはじゅうぶんに大人であり、少年たちの憧れの存在であったバンド「自分BOX」のギターの男が、彼女の誕生日のためにケーキを盗んで店員からボコボコにされる、悲哀のあるシーンともつながっているのである。

こういうくだりは、ケラがもともと得意とするところなので(映画「1980」もそんなようなシーンが多かった記憶がある)、オーケンと、「女子に対する憧れ」という点において資質がものすごく明確になった映画だったと言えると思う。

その3
1986年当時の時代考証について、その時代に青春時代を送った人たちから、ラジオやネットなどで微妙な間違いが指摘されている。
たとえば、主人公が好きな女の子をオカズにオナニーしようかどうか悩むシーンで、幻の、そのオカズにされんとする女の子が現れる。
そして、「薬師丸ひろ子だろうが、私だろうが、オカズにされてもわからない」みたいなことを言うんだが、
86年当時は、すでに薬師丸ひろ子は男子高校生にとってそういう存在ではなかった。
きちんと調べていないが、南野陽子とかだったんじゃないかな? むしろ。

あるいは、主人公が名画座めぐりをするために昼食を抜いて金をためるというのも、そういう少年がゼロだったとは言わないが、レンタルビデオ店がすでに出てきている時期なので、切実さは原作より薄れている。

また、クラスメートの女の子が「安っぽい」というニュアンスで「安っ!!」と言うが、そういう言い回しは90年代に入ってから広まったものだと思う。

もともと、ケラは80年代や90年代初頭など、わざとちょい過去を設定して脚本を書くことがままあったように思うが、このような考証のユルさには正直、首を傾げてしまった。

その4
しかし、それでもなお本作が語ろうとしていることは重要である。
まず、本作は「ダメな少年がバンドを始めることによって成長する」物語でもなければ、「ダメな中年が少年の頃の純粋な気持ちを思い出して再生していく」物語でもない。
それなのに、2007年~1986年という時代を行きつ戻りつし、現実は物語のように劇的でもなければメリハリがあるものでもないということを提示し、なおかつ「自殺したクラスメートの手紙」といういかにもなものを導入し、何らかのファンタジーを観客側に提示する。

現実は現実、奇跡は起こらない、だけどそれがどうした、昨日も今日も明日も生きていくんだよ。いや違うな。死んじゃうやつは死んじゃうよ。でも生きてるやつは生きてるよ。だからやっぱり、生きていくんだよ。

そういうことを表している。
こういうものはなかなかに十代や二十代の青二才には描けない物語であって、
ケラが80年代の、「物語をいかに解体するか」というような雰囲気に同時代的に浸かっていたにも関わらず、それでもなお、「物語」に固執してそれを描くことを成功させるという、そういう凄みを見せつけられる思いがある。
(たとえば破壊的なプロットを練る三木聡とか、宮沢章夫などと比べてもよほどしっかりしているし、「物語性」ということに意識的であろうクドカンよりも、もっときっちりした着地を、本作はするのである。)

まあ、たぶん「物語性うんぬん」ということで本作が評価されることはないだろうが、まあそういう人は気づかないままでも、自分はもうかまわん。私が損するわけじゃないから。

なお、セリフですべてを説明しようとする映画「キサラギ」とはまた別の、「あえて説明しない」ギャグが頻出するが、それがまた「芝居っぽさ、舞台っぽさ」をかもし出してしまっている問題点については、書いたら長くなるので書かないことにする。


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