【雑記】・「オタクに人格類型はあるか」
下のエントリに続いて、またこちらについての話題。
イベント上の会話だったということで、真意がつかみづらいんですがいちおう、リンク先のテキストからすると、
「東浩紀は、オタクが差別されていることを前提としながらも、遺伝子で決定されているわけじゃないんだから。そんな人格類型があるのだろうか?」と疑問を呈した、というふうに考えてよござんすね?
それでですね、私は結論から言うと「オタクの人格類型」って強調されるほど、ないと実は思ってるんですよね。
まあ、そんなこと書いたって「オタク」の定義がはっきりしない以上、「どうとでもとれる」世界に行かざるを得ないんですが、「遺伝子」という比喩が当てはまるほど、「オタク」というのは人間にとって不可避の属性ではないと思っています。
それより「ヤンキー」とか「不良っぽい」っていう方が、普遍的な遺伝子(あくまで比喩として)はわかりやすいんじゃないでしょうか。
ヤンキーの話をするとそれはそれで長くなるので、戻しますと、「自分はオタクとしてしか生きられなかった」という切実さは、あくまで個人的印象ですが第一世代が、70年代半ばという大きな時代の転換期にあって強烈に感じた原体験であって、その後の世代とはちょっと違うんではないか、と思うんですよ。
もう死語になっちゃったけど「新人類」ってのもおんなじで。
ソース忘れましたが、宮台真司が「新人類というのは、70年代から80年代の、都内の私立進学校にのみあった感覚だ」と書いていたのを読んだ記憶がありますが、たぶんそうやって限定してしまいたくなる、特異な「時代感覚」がそこにはあったんじゃないかと。
(もちろん、宮台の発言は自分たちの体験を特権化したがる戦中世代、全共闘世代に対する牽制だとも受け取れますが。)
戦時中でもないのだから、もうちょっと生き方には選択肢があると思うんだけど、どうでしょう。
まあ、なんでそんな「比喩としての遺伝子」が問題になるのかについては、長くなるので気が向いたら書きます。
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