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【雑記】・「萌え」ってのは、大事な何かをそぎ落として成立しているのかもなあ……

萌えとは、緊張の緩和である

萌えとは、人の業の肯定である

自分は、お笑い論になぞらえて言うなら「萌え」ってのは水道橋博士がどこかで言っていた「世間一般では『負け』であることが、お笑いにおいてはそれだけでは終わらない」という一種の価値の逆転が近いんじゃないかと思っています(そういう意味では緊張→緩和、に近いか)。


どういうことかというと、「セックス史上主義」を回避しているわけでしょ、「萌え」ってのは。それはセックスを描いているエロゲーとかにおいても。
それは世間一般からすると「負け」になっちゃうんだよね。でも「萌え」においては、シチュエーションによっては美少女からセックスを拒否されることすら「萌え」につながる。
そんなような意味で、書きました。

ちょっと検索したんだけど、かっこよく格言みたいになってるわけじゃなくて、さらに水道橋博士発言としてのソースも見つからなかったのでこれ以上そっちには話を進めませんが。

それとはぜんぜんカンケイない文脈でマジ書きしてみると、
「萌え」ってのはぶっちゃければカワイイもの至上主義なわけでしょ。
「グロテスクな怪物が萌え~」って使い方も、まああるにはありますがそれは広げすぎだから。

「カワイイもの」以外は、切り捨てられちゃうってことなんだよね。

だから、ライトノベルやギャルゲーに妙に内省的、ブンガク的テイストがある場合、
それは「萌え」文脈が切り捨てていったものを物語で補完する、という意味があるんではないか、と少々飛躍してみる。

いや、そこはあながち間違っていないと思いますよ。
「ヤンデレ」なんかもそうだよね。最初にとても「萌え」とは言えないものから入って、それをなんとか「萌え」に着地させようとするわけだから。

でも「萌え」ってのは一種の枠組みだから、「萌え」というスタンスを保ち続けるかぎり、ぜったいにたどりつけない「業」が存在しうる。

「萌え」を80年代の「かわいい」と直結させることがどれほどうかつなことかはわからないが、
そのことに早くから気づいていたのは、大塚英志と中森明夫。

大塚のミヤザキ擁護は、「かわいいもの」からの逸脱を意図的に行い、それを見せつけようとした行為だったのではないかと思えるし(だからミヤザキは「かわいい」のだと強弁するようなところすらあった)、
中森明夫は小説「オシャレ泥棒」のラストシーンで、「かわいいを超えるもの」を示唆しているんだよね。

中森明夫の「オシャレ泥棒」が刊行されたのが1988年。けっこういい小説だと思うんだけど、まるで「風化」を意識しているかのように、男の私が当時読んでもサッパリわからなかったファッション・ブランドの名前が羅列されている。

実は「かわいい」の先には、いろいろとメンドクサイことがある。中森明夫は、たぶん意図的にそっちにはいかなかった。
しかし20年前にすでに「かわいい」とはどういうことか? それは人生を賭けるに値するものか? という問いがあったことは、もっと思い出されていいと思う。

まあ、近年は「萌え」の先には何があるのか? という問いの結論が、
データベース化だの非モテだの、ってことになっちゃってるけど。
いいことか悪いことかわからんけど、それも「美学」の一種だとすれば否定するいわれもない。

それが現代ってことなんだろう。

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