« 【感動近未来小説】・「ズンボボズボボボ伝説」第2回(感動の最終回) | トップページ | 【感動自作小説】・「栗太郎とひょっとこ姫」第3回 »

・「最強伝説黒沢」(6)~(11)(完結) 福本伸行(2005~2007、小学館)

Saikyo11
[amazon]

本作が雑誌連載で最終回になったときに、最終回だけ読んでこのテキストを書いた。

「嫌われ松子の一生」と比較して書いたのだが、「松子と似てません」と言われて、かなり後悔した。
単行本ベースで読んでいたため、最終回だけ読んで書いたからだ。
これでは、反論されても単行本を読み直さないと書きようがない(私はマンガを読むのに時間がかかる)。それに、「最終回だけ読んでテキストを書いた」と断り書きはしたんだけれども、やはりそういうことはすべきではないと思った。

で、やっと最後まで読んだんだけど、

やっぱり映画「嫌われ松子」に似ていると思うよね。私は。

・第1部
まず、映画「嫌われ松子」との比較の前に、終盤のクライマックスである「ホームレスと暴走族の対決に加勢する」までの、単行本6巻からの展開について感想を書く。

正直、中だるみの印象は否めなかった。
職場で黒沢がトイレに入っている間にバットで殴られたの殴られないの、不良たちの標的になって逃げ回るの、居酒屋で不良たちを一網打尽にしってやっつけるのといった展開は、それまでの繰り返しにすぎないと思ってしまった。

ただし、ホームレスと暴走族との対立に首を突っ込んでからは、ちょっと面白くなる。
黒沢が、「他人のために戦う」ことに目覚めるからだ。
それが、今までとは違う。

しかし、ずいぶん当たり前のところに落ち着いてしまったな、とも感じる。
私個人の考えとしては、「終わらせるために考え出した結論」のように、少し思える。

連載が終わったとき、「唐突な最終回」と書いたが、単行本で通して読んでみたら、ちっとも唐突ではなかった。
ちゃんと、終わるべくして終わったと思う。

その「終わらせるため」の、黒沢の果てしの無い自問自答の結論、それが「他人のために戦うこと」というのには、感動もするが、「なんだ、他の少年ジャンプとかのマンガと同じ結論じゃないか」とも思ってしまった。

・第2部
黒沢は、ホームレスと知り合ったときに、自分の人生を1日24時間に置き換え、今の年齢だと午後3時に相当するからもう後が無い、と叫んで号泣する。
ホームレスたちも、「自分の人生」というものを考えているから、暴走族に立ち向かっていけない。

「最強伝説黒沢」とは、「自分の人生が失敗だった」と思わざるを得ない男の話だったはず。

「自分の人生」が取り戻せないと感じる人間はどうするかというと、趣味や妄想の世界に行くしかない。
黒沢の、命がけの数々の「奇跡」を「趣味」と言ってしまうのは酷すぎる気もするが、
実際、「黒沢人脈」が形成されようが、ホームレスを救おうが、黒沢の望む、一般的な人生の「成功」とはまったく関係がない。

まったく関係がないということは、黒沢は自分で、どこかで自分を納得させるしかない。

そもそもが、ホームレスと知り合う前に飲み屋で一人飲んでいた黒沢は、「自分は自分をごまかしているのではないか?」と考えて落ち込む。
なぜそうなるのか。
それは、黒沢が望むものが「かたちのあるもの」と「ないもの」と両方だからである。

「かたちのないもの」だけでは、中年以上になるとどうしても満足できなくなるのだ。
あるいは達観するしかない(「達観する」ということは、そうならなければならない屈託がそもそも存在する、ということである。)

また、もしも「かたちのないもの」(人望など)が得られても、その取得には終わりが無い。
かたちがないから、常に「自分が手にしたものは本当に自分のものなのか?」と自問自答しなければならない。
つまり、黒沢の悩みは永遠に終わらない。

だから、作者が適当なところで終わらせた。黒沢にとっていちばん幸せなところで……。
そういうふうに、自分は受け取った。
「適当なところで終わらせられる」とはどういうことか。
繰り返しになるが、黒沢の悩みには答えなんかないということである。

いや、「答えがない」とは言わないが、それは多様である。

本当は黒沢が、かたちのあるもの(金、異性、一般的に理解しやすい社会的地位)などは何一つ得ていないことに注目されたい。
「最強伝説黒沢」というタイトルのとおり、黒沢は他人にとっての「伝説」であって、黒沢自身の幸せは、しつこいくらいに作品内で自問自答される。
「戦うこと、大切なものを守ること」が、徹底的にダメな人間のやるべきことだと、それが本作の結論なのだろうか?

自分には、どうもそうは思えない。
作者が、そこら辺の欺瞞性に気づいていないわけでもあるまい。

・第3部
一方、映画の「嫌われ松子」は、松子が晩年、「女」としての人生を捨ててしまってからの内面はほとんど描かれていない。そういう意味では、「黒沢」よりも絶望は深い。
また、松子のような恋に生きる女性の場合、相手が存在しなければどうにもならないのだから、「大切なものを守って死ぬ」という、男に残された「生きがい」を見つけることすらできなかっただろうと思われる。

まあ、簡単に言えば、

何もない独身男の話が「黒沢」で、
何も無い独身女の話が映画「嫌われ松子」だ。

私には、「黒沢」のラストはあくまでも便宜上のものにすぎず、やはり「嫌われ松子」的な絶望を内包しているように思う。
ただ、それをやってしまうとものすごく暗い話になるから、暴走族との戦いに勝利したところで終わらせたように思うのである。

厳しいことを言ってしまえば、「黒沢」のラストは論理のすり替えだとすら言えるのである。

もう少し詳しく説明すると、
黒沢の望みというのは、基本的には「人望を得ること」と、「モテたい」ということと、それと「家族を持ちたい」などの人並みの幸せが欲しい、というものだったと思う。

そういうふうに思いながら生きている人は、実際に多いだろう。

では、そのように思うことが悪いことかというと、別に普通の話である。

それと、「大切な人を守る」というのは、まったく次元の違う話だ。

たとえば、普通黒沢くらいの年齢だったら「妻子を守る」ことが「大切な人を守ること」だろう。
しかし、黒沢はその「守るべき妻子」すら得られなかったのである。
その、人生の意味について考える必要がある。

黒沢がなぜ生ける屍のような人間になってしまったのかといえば、
それは彼のリアルな「日常」において、そうなるように仕向けられてきたからである。

日々のつまらない生活の中で、どれだけ自分を磨いていけるか、大切なものを守っていけるかということと、
「暴走族とケンカする」ということは、ぜんぜん違う話である。

だから、いちばん最初の不良とのケンカあたりまでは日々の生活との地続きで、
もっと言ってしまえば、「アジフライ」のエピソードが最もリアリティがある。

「アジフライ」的なことでみんな失敗してきたからこそ、無気力になる。問題に立ち向かっていけない。

ではどうしたらいいか? というと、「黒沢」ではけっきょく、「それでも自分を信じてがんばれ」ということになってしまっている。

他のマンガではそれでもいいが、「黒沢」においてそのような結論でいいのだろうか?

自分は、それは映画「嫌われ松子」の、松子の晩年があまりにも孤独に描かれ、そして無残に死んでいく、
それとあまり変わりがあるようには思えない。

そして、「松子」では最終的に、「神」は出てこないが「神」に近いギリギリの存在が表れる。

それが、「松子の知らないところでの、甥の視点」の存在である。

松子にとって人生がどの程度満足のいくものだったかは、謎。
しかし、甥は認めている。その救い。

それと、黒沢があくまで「他人にとって」伝説となったということ。

そこはやっぱり共通していると思う。

で、「自分の中で、内なる、外部の視点(甥の視点)」を持つことは、
1回転して、けっきょくは「自分で自分を評価すること」につながる。
(映画「嫌われ松子」ではっきりそう言っているわけではないが、この映画を観た観客が自分を振り返るとき、「だれか、自分以外の視点」を意識せざるをえないだろう。)

黒沢でも、「自分と世間の関係」を、「蟻と子供」に置き換えて考えるシーンがある。自分の客観化が、自分の主体的な評価へと変換するということ。

そこが「松子」と「黒沢」の共通点。

より正確に言えば、「松子」の方がクールで、シビアな方向に行ったと言えると思うけど。

5巻の感想

|

« 【感動近未来小説】・「ズンボボズボボボ伝説」第2回(感動の最終回) | トップページ | 【感動自作小説】・「栗太郎とひょっとこ姫」第3回 »

マンガ単行本」カテゴリの記事