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・「マカロニほうれん荘」全9巻 鴨川つばめ(1977~1980、秋田書店)

Makaroni
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週刊少年チャンピオン連載。
アパートで一人暮らしをすることになった高校生・沖田そうじには、強烈な個性を持つ先住者・トシちゃん25歳ときんどーさん40歳がいた!! 時代にザックリ爪あとを残した歴史的ギャグマンガ。

「今、マカロニほうれん荘についてまともなことが書けないと、オマエに先は無い」と、暗黒ビリジアン星人に言われたので、書きます。
このテキストが、2007年から70年代のギャグマンガを観た壮大な後だしジャンケンにすぎないとしても。

ネットを巡回してみると、本作については「元ネタ探しや細かい伏線を発見するなどのマニアックな視点のもの」、「今、作者は何をしているのか? という疑問や質問」、「リアルタイムの印象を思い入れ強く書き綴ったもの」の3つに分かれると思う。
とくに三番目は、大ヒット作によくあることで、それだけ当時の影響が強かったということである。

作者の鴨川つばめは、他のビッグネームなギャグマンガ家、山上たつひこ、江口寿史などと比べるとことさらに「彗星のごとく表れ、消えた」という印象を持つ(本当は10年くらい前まで断片的に作品を発表しているにも関わらず)。

それは、作者自身がその後ヒット作にめぐまれなかったことと同時に、本作があまりにもあまりにも強く、時代性をまとっているからだろう。

ここで議論になるのが「マカロニほうれん荘は再読に耐えるかどうか」という問題である。
ある人は「時代と寝た作品。今読んでもさほど面白くない」と言うし、またある人は「そんなことはない。今でも本棚に常備し、ときどき取り出して笑っている」と言う。
またある人は、「今の大人には受けないかもしれないが、子供には受けていた」とも書いている。

結論から言うと、多数決で言えば、「今読んでもそれほど笑えない」ということになってしまうと思う。
これは、20年くらい前の漫才を今観ても、あまり笑えないことが多いのと同じで、しかたない。作者が悪いのではない。

そして、「笑えないからダメか」というと、私個人の感覚ではぜんぜんそんなことはない。
「笑う」ことと「面白い」ことは、当然イコールではないんだし。

むしろ、1話1話の完成度の高さには圧倒される。これが週刊ペースで描かれていたのか、と。

・その1
「なぜ、リアルタイムほど笑えないか」を説明してみる。

まず、本作では画期的だったことが現在は当たり前になってしまっている、という弱みがある。
劇画調の登場人物が等身をめまぐるしく変えつつ、姿も変えつつギャグをやる、ということはマンガでは当たり前になってしまった。

次に、リズム、テンポが独特すぎてなじみにくいというのもある。
ボケとツッコミがきっちりしてなかったりするのである。それこそが魅力のひとつでもあるんだけれど。

第三に、表面上の面白さよりも、もっと潜在意識に訴えかけるようなギャグであること。
絵の面白さ、テンポ、当時は非常に珍しかった、ロックやミリタリーが写実的なパロディとされているということ。
毎回の扉絵が、お話とは何の関係も無いシュールなものであったこと……。なんというかこう、心の底をまさぐられるような作品である。
だから、視覚的な刺激に敏感な子供には現在でも「笑える」作品かもしれない。

情報の奔流に身をゆだねる作品だから、「取って出し」の頃と情報があふれかえっている現在ではどうしても受け取る感覚が違ってしまう。無理やりたとえるなら、10年くらい前の人気ブログを今読むときにぬぐえない違和感に近いものが感じられてしまう。

しかし、それは作品の性質上仕方のないことで、今後は新しい読み方が必要になってくるかもしれない。
というより、古い作品を楽しむ文化が、正直マンガにはほとんど根付いていない(正確に言えば、古書ファンと重なる名作マンガファンとリアルタイムの作品を楽しむファンが分離してしまっている)ので、今後そういうことが課題になっていくだろう。

・その2
以上で、「マカロニほうれん荘」のすごさは実感していただけただろうか。してもらえたよね。まさかけなしていると誤読している人はいないだろうね。

さて、「鴨川つばめはどうしたら生き残れたか?」を考えてみたい。

で、驚いたのが鴨川つばめは酒井七馬を心の師とあおいでいたということ(鴨川つばめ、酒井七馬でググってみてください)。
酒井七馬といえば、手塚治虫より古い人ではないのか。しかも、鴨川つばめは「量産するマンガ家に批判的で、マンガ界に復讐しようと思っていた」とかインタビューで語っていたらしい。
気づけば、「マカロニほうれん荘」には、手塚はどうだったか忘れたが石森ネタなんかはほとんど入っていない。もしかして嫌いだったのかな? 量産していたから。

さらに、アシスタントも使わずに一人で描いていたという。作品のイメージどおり、アーティスティックな人だったのだ。

で、結論から言うと、
・「ギャグ」より「コメディ」の確立
・美少女を描くことの追求

ということしか、鴨川つばめ生き残りの道はなかったのではないか、と思う。
(もちろん、現時点での後だしジャンケンな言説であることは、書いている自分がいちばんよくわかっている。)

しかし、「ギャグマンガ家のコメディ路線、もしくはストーリーマンガへの転向」というのは80年代にこぞって行われたのも事実なのだ。
江口寿史は「すすめ!!パイレーツ」と同系統の「ひのまる劇場」がコケ、ギャグというよりコメディ路線の「ひばりくん」で再ブレイクしている。その後の江口作品は、もちろん純粋なギャグものもあるが等身の高めな登場人物のものが多くなる。
とり・みきも、純粋なギャグ路線の「るんるんカンパニー」の次には「クルクルくりん」という、ギャグ少な目、キャラクター頼みの作品を描いてヒットさせている。

「コメディ寄り」というより「キャラ頼み」ということで言えば、吾妻ひでおも「ななこSOS」はキャラ重視の作品であった。
小林よしのりはギャグでがんばっていたけれど、ストーリーの面白さでも読ませる人だったし。「いろはにほう作」とか。
徳弘正也も、「シェイプアップ乱」の頃からシリアス展開ができる人だったし。
ゆうきまさみは「パトレイバー」に行くし。

だから、「マカロニほうれん荘」の次の作品が、コメディ路線の「ミス愛子」だったことは、決して間違っていなかったと思う。

で、ギャグではなくコメディへの転向は、どうしても「笑いが薄い」というふうに読者に取られてしまいがちである。
その不安材料を担保するのが、80年代には多くの場合「美少女が描ける」ことであったと思う。
江口寿史、とり・みき、吾妻ひでお、全員かわいい女の子が描ける。
細野不二彦が生き残れたのも、かわいい女の子が描けたから(だと思う)。

で、鴨川つばめの描く女の子ってかわいいんだけど、いわゆる萌え方向にはシフトしたくなかったんだろうなあ、と思う。
そういうの、カッコ悪いと思ってしまう人だったんじゃないかな。

今思うと、早すぎるロリコン描写などをしているのである。本当に驚かされる。
でも、この人のエロ描写って、すごい大人のエロという印象を受ける。パンツ見えたからどうしたとか、そういう感覚ではない。
ま、そんなことを思う。

純粋な「ギャグ」というより、潜在意識に訴えかけてくるような凄みがあるのが「マカロニほうれん荘」なのである。
が、「マンガの商品化」という意味ではすさまじかった70年代にさえ戦いを挑んだ作者は、80年代後半という、時代が整備されまくる過程には……シミュレーションしても、ついていけなかったんじゃないかと思わざるを得ない。

なにせ、江口寿史でさえつぶされないようにトンズラしてそれが結果的には現在の生き残りにつながっているし、
吾妻ひでおに至っては、「失踪」という奥の手(?)を使わなければ現在はないわけだから。
つくづく過酷な世界である。

・余談
「マカロニほうれん荘」は、今読むと意外に多くのラブコメ的要素が入っているので驚く。
少年チャンピオンは、80年代は「750ライダー」という長期連載作品がラブコメとしてどっしり構えていて、サンデー、マガジン、そして村生ミオが描いていた少年キングなどと比べて少年ラブコメブームに新しい作家や作品を送り出したとは思えない。ちょっと思い出せない。

しかし、なぜかあすなひろし「青い空を白い雲がかけてった」とか織みゆき「ふられ竜之介」など、ラブコメというよりは「青春もの」とでも言うべき路線があった。「マカロニほうれん荘」のラブコメ部分もその関連で存在したんじゃないかと思うけど。

急に思い出したけど、私、織みゆきが白泉社かなんかに描いた単行本(「セブンティーン・ブルース」)持ってたけど、読まずになくした。
絶望して泣く。

とにかく、「チャンピオンの青春路線」と、それとソノラマ文庫や秋元文庫などの青春小説ね、これらはラブコメ、ひいては萌えマンガの系譜を追っていくなかで、ぜったいに研究されなければならない分野だと思う。
ヘタをすれば、ケータイ小説にさえつながってきかねないジャンルだからね。

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